「物」に人の心を見、すべてに神の愛を見出せるように

ルカによる福音(ルカ121321

13〔そのとき、〕群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」14イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」15そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」16それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。17金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、18やがて言った。「こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、19こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。20しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。21自分のために冨を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

 200481年間第18主日ミサ 鈴木真司祭の説教    

 「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」‥イエスの時代、あるいは遡った旧約の時代、富や財産は神からの恵みと見なされていたようです。金持ちや財産を多く持っている人は、それだけ神から祝福されているしるしである・・と。従って金持ちはその富を大いに誇っていました。そんな時代にあってイエスの言葉は、周りの人をさぞかし驚かせたことでしょう。「金持ちが神の国に入るよりもらくだが針のあなを通るほうがまだ易しい」‥など。わたしたちは普段自分がそれほど食欲であるとは考えていないかも知れませんが、新聞やテレビを見ていると、人間の限りない欲望がなせるわざだと思わせる記事に毎日のように出会います。実際、人間にとって欲望とは限りなく、わたしたちも、つい「あれが欲しい」「これが欲しい」という思いを持ってしまうことに違いないのかも知れません。

 

第二朗読でパウロは「貪欲は偶像礼拝にはかならない」と言っています。《偶像礼拝》とは即ち、人間が自分に都合の良い神様を作り上げてしまうことですから、その意味で貪欲も神様ではなく「まず自分」と、結局は《自分》に心がとらわれることで神様から離れてしまうことなのでしょう。

 この箇所を読むたびに思い出す苦い思い出があります。神学校に入ったばかりの頃、質素な生活を心がけていました。与えられた部屋も狭かったですし、金もなく、何より神学校生活という新しい生活の中でつましい生活をしなければ‥という気負いがありました。それでも何か趣味に頼りたかったのでしょう、当時好きだったモーツアルトのテープコレクションを作っていました。CDなどまだ高かったのでFMラジオからカセットテープに録音したものです。番組表をチェックしては新しく出会うモーツアルトの曲を録音して、テープが増えてゆくのを楽しみにしていました。ある日、ある先輩に「君、モーツアルトが好きなんだってな。テープ23本貸してくれよ」と言われ、何の気なしに貸しました。後からわかったのですが、どうやらその先輩は物の貸し借りにルーズな人で、何週間たっても返してくれません。何かの折に「そろそろ返してくれませんか」と言うと、「あ、ごめん ごめん。すぐ返すよ」‥と言われてからまた数週間。心配になったわたしはその先輩のところへ行き「あの、わたしにとっては大事なテープなのでどうぞ返して下さい」と言うと、先輩はわたしをじっと見てこう言いました。「そうやっておまえは墓場までカセットテープを持って行くつもりかよ」‥向こうは冗談半分で言ったのでしょうが、その時はショックでした。ああ、自分はいかに「物」にとらわれていたのか‥と。もっとも今だったら「そういう偉そうなセリフは 返すもん きっちり返してから言わんかい」とか、やくざなことを言い返してしまいそうですが‥。

 他方、ある人にこんなことを言われたことがあります。「物には人の心が入る」‥心のこもったものはその物質以上の価値がある。本当にそうだと思います、『やもめの献金』の箇所にもあるように。わたしたちはよく「物を大切に」と言いますが、そのことが「物」にこもった人の心に根差す時、より深い意味の言葉になるように思います。どんな「物」でも人が介在しない物はないのですから。「物」に人の心を見るか、それとも自分の欲望の対象として見てしまうかで、まったく違った道を歩むことになるのでしょう。

 今日の箇所の終わりに「神の前に豊かになる」と言われています。神の前に豊かになる、それは逆にいつも神の前におかれた自分が【ゼロ】になることのように思います。わたしたちが本当に神の前に自分を置く時、すべては神から与えられたものであること、自分がいかに神の前に小さな存在であるかということ、さらにその自分を神がいかにかけがえのないものとして愛して下さっているかということを感じるからです。神にすべてを委ねて【ゼロ】になる、それこそが「神の前に豊かになる」ことではないでしょうか。

「物」に人の心を見、すべてに神の愛を見いだすことが出来るように祈りたいと思います。