求めなさい。そうすれば与えられる。

ルカ(11513 

 5また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。6旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』7すると、その人は家の中から答えるにちがいない。面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』8しかし、言つておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。9そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。10だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。11あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。12また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。13このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

 

2004725(年間第17主日) 鈴木 真神父説教原稿        

 

 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」‥この聖句に出会う度に、大きな希望を見いだすと同時に神様の“ズルさ”を少々感じてしまいます。わたしたちが声をあげれば、それは必ず聞いていただける。でも、それが《いつ》 《どこで》 《どのように》なのか、一切言われないのです。しかしとにかく「聞いていただける」ことは言わばイエス様の保証付きです。人間の間だってそうでしょう?、と言うわけです。夜中に友人に頼み事をしつこくすれば、友人だと言う理由ではなくあまりのしつこさに渋々ながら聞いてもらえるでしょう。ましてや神様は‥。人間は罪人でありながらも、食べ物を欲しがる子供に蛇やさそりを与える父親はいない。ましてや神様は‥と言うわけです。「聞いていただける」ことは確実なんです。でも、それが“いつ”であるのか、明日か来週かはたまた何年後なのか、“どこでどのように”なのか、わたしたちが想像しているような形でなのか、それともまったく想像していないような形でなのか、それがわからない。何ともじれったい気持ちになります。でも考えてみれば、わたしたちが何か問題を抱えていたり、あるいは重要な選択を迫られたりして必死に祈っている時というのは、往々にしてその自分の《思い》にばかり目が向いてしまっていて、それを「必ず聞いて下さる神」になかなか目が向かないようにも思います。そして後から振り返ってみると‥そうか、もうすでに与えられていたんだ‥と気付くことが少なくないのではないでしょうか。

 

 もう何度か話してきましたが、わたしが神学校に入ろうと思った時、なにせ“上智大学で勉強したい”という不純な動機があったものですから、ある神父さんに相談したところ「呼ばれていますか?」と聞かれて困ってしまいました。まったくさっぱり「呼ばれている」という感覚がなかったのです。悩んだわたしはそれから毎日由比ケ浜教会の聖堂に行って、こう祈りました。「神様、わたしはバカですから、もしあなたが呼んで下さってるのならわかりやすく呼んで下さい。ひとこと、『オイ』と言って下さい。その『オイ』が聞こえたら、わたしはもう何の迷いもなくあなたに従います」、と。結局『オイ』とは聞こえてきませんでした。でも数年後に自分が司祭になることを決意した時、過去のさまざまな出来事が違って見えてきたのです。それまで「自分が歩んできた」と思っていた道は、すべて神が用意して下さっていたものだと気付いたのです。「呼ばれている」なんてことをわたしが考えるずっと前から、神様は確かに呼ばれていた、そう強く感じました。視点を変えることによって、「必ず聞いて下さる神」の存在が感じられるのだと思います。

 

 今日の箇所では「神とわたしたちの関係」も示されています。わたしたちは個人的に祈っている時、ほとんどの場合何かをお願いしているように思います。「求めなさい」と言われるように願うこと自体は悪いことではないでしょうが、それが“わたしの願い”になり易くなってしまい、“わたしたちの”という視点を忘れがちです。でも、神と人間との関係は常に「神とわたしたち」であって、厳密に言って「神とわたし」だけの関係は有り得ないと言えるでしょう。神とわたし個人との間には、必ず第三者の人間が介在しているのです。違う言い方をすれば、神は常に人を通して働かれています。だから「日曜日に教会に行かなくたって、家で一生懸命祈っていればいい」わけでは決してなく、【教会共同体】が不可欠であるわけです。「神とわたし」という垂直の関係は、常に「わたしたち」という水平の関係と切っても切れません。つまり、「神とわたしたち」、なのです。

 

 今日の箇所の前半に『主の祈り』のルカ版が記されていますが、だから主の祈りも「わたしたち」です。決して「わたし」とは言われていません。この「わたしたち」という視点が、これからより一層必要とされているでしょう。ミサの中での共同祈願の順番も、実はそうした視点で決められています。まず第一に世界の教会のため(教会が最初にくるのは少々引っかかるのですが‥)、次に全世界のため、三番目に困難な状況におかれた人々のため、そして四番目以降にそれぞれの共同体のため‥といったように。「わたしたち」という括りが限りなく広まっていくことの、一つのしるしでもあるでしょう。

より広い「わたしたち」という視点を持ち続けることが出来るよう、共に祈りたいと思います。