ルカによる福音(ルカ24・46〜53)
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「聖書には〕46次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。49わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
50イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。51そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。52彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、53絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
2004.5.23 主の昇天 9時ミサ 鈴木 真司祭の説教
復活されたキリストが「天に昇られた」ということを可視的、つまり目に見える形で語っているのは、実は厳密に言うとルカ福音書だけです。マルコの最後には似たような文章がありますが、多分に抽象的であり、しかもマルコ16:9以下は後の時代に書き加えられた部分であるというのが通説ですから、ルカ以前の伝承にはなかった表現であると言われています。福音書編集以前のより古い伝承を見ますと、それとは別に〈高挙伝承〉と言われるものがあります。これは「復活されたキリストは神によって高く挙げられた」というもので、一番古いものはフィリピ書にある「キリストは人間の姿で現れ、十字架の死に至るまで自分を低くして従う者となった。それゆえ神はキリストを高く上げて、すべてにまさる名をお与えになった」(フィリピ2:6〜9)という部分、パウロ以前から存在していた信仰告白ではないかと言われています。ベトロの手紙などを見ると「キリストは天に昇って神の右の座におられます」といった表現が出てきます。他方で、旧約聖書には〈偉大な人物が神によって天に上げられた〉 という表記が見られます。有名なところでは預言者エリヤが火の車でもって天に迎えられた‥(列下2:11)などですが、こうした旧約的思想に高挙伝承をミックスさせて、ルカ的な表現で措いたのが「キリストの昇天」、と言っていいでしょう。
ルカは(福音書の続編として書かれた使徒言行録も含めて)イエスの時代から使徒たちの時代、つまり教会の時代へとはっきり分けようとするがゆえに、「復活」「昇天」「聖霊降臨」を段階的に措きます。「昇天」でもってイエスは一旦天に昇ってもらって、さあこれからは聖霊が降って使徒たちの宣教が始まる‥といった感じなのですが、むしろそれぞれの要素を弟子たちの【復活体験】というものの中に再び置いて見つめてみると、様々なことがわかってくるようにも思います。「イエスが天に昇られた」‥それは矛盾するようですが、むしろイエスが“目には見えないが不思議な形でいつも共にいて下さると感じる”体験だったと言えます。52「彼らは大喜びで‥神をほめたたえていた」とありますし、使徒言行録では目に見えないイエスが弟子たちにたびたび話しかけられます。言わば“この世的でない”形でイエスが「共にいて下さる」ことを弟子たちは感じていました。47「罪のゆるしを得させる悔い改めが、その名によって‥宣べ伝えられる」‥これは神御自身がキリストを通して宣べ伝えて下さると言う意味です。宣教の主体はあくまで神御自身であり、キリストの十字架によって示された生き方が罪からの解放を宣言するものであることを、弟子たちは体験しました。「エルサレムから初めてあなたがたはこれらのことの証人となる」‥“証人になれ”“証しろ”とは言われません。キリストの復活に触れた者の存在自体が、すでに「証人」つまり【あかし】となっているのです。キリストに触れた者を通して、神御自身が、今度は他の人をキリストに触れさせて下さる‥これもすなわち弟子たちの《復活体験》であり、今日のわたしたちも全く同じ体験を日々していると言っていいでしょう。わたしたち自身もキリストの十字架によってゆるされ、その生き方へと招かれ、わたしたちを適して神御自身が【宣教】されている。それこそが、わたしたちにとっても“キリストが共にいて下さる”しるしに他ならないのです。
今日の箇所の最後に、天に昇られるイエスが弟子たちを「祝福」され、弟子たちは大喜びで神を「ほめたたえていた」とあります。実はこの二つの言葉はエウロゲオーという同じギリシャ語の単語で、もともとは“喜び”を意味する言葉だそうです。「祝福」とは神の喜びのしるし、つまりその人の存在自体を神が喜んでおられるしるしなのです。そしてそのことを感じた人はまさに喜びに満ちあふれ、自然に神をほめたたえるでしょう。だから「祝福する」と「ほめたたえる」とは同じ言葉なのです。これほどまでにわたしたちを愛して下さる神へと心を向けながら、その愛を示して下さったキリストがいつも共にいて下さることを、御一緒に感じたいと思います。
