聖霊の豊かなめぐみを告げ知らせよう

 

 

 

ヨハネによる福音(15-26~16-12)

そのときイエスは弟子たちに言われた。

26わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。27あなたがたも、初めからわたしと一一緒にいたのだから、証しをするのである。

12言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。13しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。14その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。15父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

 

2003年6月15日 聖霊降臨の祝日 堅信式において 梅村司教のお話

 

茅ヶ崎教会堅信式説教要約

 復活節は主の復活を祝う季節であると同時に聖霊降臨に向けての準備の期間でもあります。今日、朗読された使徒言行録では、聖霊降臨について 「彼ら(使徒たち)は皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」また「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると彼らは聖霊に満たされたと言われていました。復活されたイエスと出会い、もう一度イエスに従って共に歩んで行こうとしていた弟子たちの上に聖霊が注がれました。

 聖霊を受けるために大切なことは、復活したイエスとの一致です。この一致は、どのようにしたら可能なのでしょうか。イエス自身のことばに従うならば、三つのことが指摘できます。その一つは「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」と言われたことです。二番目は最後の晩餐のとき「これはわたしのからだである」とおっしやつたことです。そして最後に、たとえ話の形ではありますが、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたのは、わたしにしてくれたことなのである」とうことばです。

 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」というイエスのことばですが、聖霊降臨のときの弟子たちのようにわたしたちが一同に会し祈るところに復活したイエスは共にいてくださるということです。共に祈る大切さが言われています。

 ミサのとき 「これはわたしのからだである。・・・これをわたしの記念として行ないなさいj につづいて司祭は「信仰の神秘」と言います。これにつづく会衆の応唱には二つの形式が整えられているのですが、ラテン語規範版に近い第二形式は「主の死を仰ぎ、復活をたたえ、告げ知らせよう。主が来られるまで。」となっています。御子キリストの死と復活を、またイエスの十字架をとおして示された父である神の愛を告げ知らせようという宣言です。神さまの愛を告げ知らせるために「行きましょう。主の平和のうちに」(Ite,missa est)ということばをもってわたしたちはそれぞれの場に派遣されて行きます。

 マザー・テレサは「わたしは一日二回の聖体拝領によって生かされている」と言っていたそうです。第一回目は毎朝修道院で姉妹たちと一緒に主の祭壇を囲むときに、第二回目の聖体拝領は、日中カルカッタの街で、行き倒れた人々を抱きかかえるときにだそうです。マザー・テレサは「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」というイエスのことばを信仰をもって受け止め、ほんとうに生きた人だったのです。

 聖霊を受け、宣教の使命を力強く果たすよう召されているわたしたちの教会共同体が、真に「キリストの教会」と言われるためには三つのことが大切です。すなわち、信仰が伝えられていること、祈りがささげられていること、そして貧しい人、小さい人々に愛が注がれていることの三つです。

それらに専念しているとき豊かな聖霊の恵みを受けることができるのです。今日聖霊降臨の祝日に堅信を受ける60名の方々とともに、新たに聖霊の豊かな恵みを心を合わせて祈りたいと思います。