
ルカによる福音(ルカ2・1−14)
1そのころ、皇帝アウグストウスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。2これは、キリニウスがシリア州の稔督であったときに行われた最初の住民登録である。3人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。4ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。5身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。6ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、7初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
8その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになつた。この方こそ主メシアである。12あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」13すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
14「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」
司祭 鈴木真神父による、主の降誕夜半のミサ説教 2003年12月25日
「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった。布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子が、その、あなたがたへのしるしだ」‥誰が想像したでしょうか。何百年も待たれていた救い主の到来、そのしるしが《布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子》であるとは‥。宮殿でも神殿でもなく、本来人間の子が寝かされるべき場所ではない家畜の餌入れ、しかも乳飲み子‥つまり生まれたばかりの赤ん坊とは最も弱い存在、言わば弱者の象徴です。
イエスが神の向かう時、彼は必ず「アッバ」と呼びかけました。「父よ」と訳されてもいますが、これはイエスが話していたとされるアラマイ語で、本来幼子が父親に向かって呼びかける幼児語なのだそうです。あえて日本語にするなら「パパ」とか「お父ちゃん」でしょうか。人間は神にとって幼子のようなもの、逆に言うなら人間にとって神とは幼子にとっての親のような存在。全面的に頼りきり、全てを委ねるべき存在です。そんな神と人間との関係を、イエスはたった一言で表わしてくださいました。さらにイエス御自身が、幼子の形でこの世に来られたことで、そのしるしそのものとなって下さったのです。まさにそのことを示すためにイエスは、わたしたちと同じく弱く小さい形で《人》となられたのです。わたしたちは時々誤解しがちです。イエス・キリストは神の子なのだからすごい存在で、痛みや苦しみなど超越していたのではないか、と。でもそれではイエスが【救い主】である意味がありません。書簡の中でも数ケ所で言われています。「キリストはわたしたちの弱さに心動かされない存在ではなく、むしろ罪の他はわたしたちと全く同じになられた。そして十字架に際しては御自身が大きな苦しみを体験された。」だからこそ、イエスはわたしたちの弱さ、小ささ、苦しみ、悩みを全てご存じなのです。そしてそれは神御自身がそのことをいつもご存じであることのしるしに他なりません。
わたしたちは生きている中でどうしても神に「なんで?」「どうして?」と問いかけたくなる時があります。でも実は聖書が提示するイエス降誕の場面にはその「なんで?」があふれています。マリアの、ヨセフの、羊飼い達の、そして救い主降誕の知らせを受けた人々の‥「なんで?」‥。その「なんで?」の真只中に、神は救いのしるしを置かれます。クリスマスというととかく華やかなものばかりが目に付き易いですが、実は最も小さく、最も弱い、最も苦しんでいる人々のところに救いが必ずもたらされることの【しるし】が示されたことを記念する時なのです。だからこそ、わたしたちは自分よりも弱く小さな、苦しんでいる人に目を向ける時、そのことに気づかされるのではないでしょうか。今年を振り返ってみると‥戦争があっていまだに争いが続き、わたしたちは重いものを背負いつつ一年の終わりを迎えようとしています。でもそんな時だからこそ、神がその現実の真只中に救いの【しるし】を置かれていることを改めて信じたい、と思います。2000年前にもまさに、そうだったように。