年間第25主日B年説教(マルコ9:30〜37) 鈴木 真神父
「すべての人に仕える者になりなさい」。‥イエス御自身が「わたしは仕えられるためではなく仕えるために釆た」(マルコ10:45)と言われています。
「仕える者」と訳されているのは《デイアコノス》というギリシャ語で、もともとは“食卓で「給仕する者」という意味の言葉だそうです。そこから「僕」や「奴隷」を表す言葉にもなっていますが、初代教会ではこのイエスの言葉をもとにして、「奉仕者」を意味するものとして使われるようになりました.今日でも「朗読奉仕者」「祭壇奉仕者(侍者のこと)」「聖体奉仕者」など、教会の中に様々な「奉仕職」がありますが、もとはすべてこの「仕える者」の意味なのです。その根流にあるのは「見返りを求めない、すべて与えっぱなし」ということ.確かに奴隷であれば身売りしたわけですから、どんなに働いても報酬が与えられるわけではありません.でもある意味でこの「与えっぱなし」というのが、「仕える者」「奉仕者」の持つ姿勢の原点であると言えるでしょう。
わたしたちはとかくいつも何かを「求め」がちです.ミサや祈りの中で、神様にもいつも願い「求めて」います。まあ聖書にも「求めなさい、そうすれば与えられる」とありますから、神様に求めるのはいいのかも知れません.でもわたしたちは人に対しても「求めて」しまいます。自分の思い通りに動いてくれるように、自分の都合のいいようにしてくれるように。しかし、イエスは言われました。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、福音のために命を失う者はそれを得る」。今日の言葉と同じく、言わば福音の「バラドックス(逆説)」です。わたしたちは求めてばかりいるうちに大切なものを失ってしまい、与えているなかで実は大切なものを沢山いただいていることに気付かされます。大切なのは「求める」ことではなく、求められたときに自分を【差し出す】ことなのでしょう.それが「仕える者になる」ことではないでしょうか。
カトリック教会には、特別な役割を担う三つの職制があります.助祭、司祭、司教がそれです。司教は使徒の後継者で、司教から任命を受けて司祭がそれぞれの教会で働きます.助祭はもともと司教の「執事」的な存在でしたが、.今日では司祭になる人間はその前に最低半年は助祭として働くよう定められています。そしてこの「助祭」と訳されている言葉が実は「デイアコノス」、つまり「仕える者」という意味の言葉なのです。この三つの職制は、例えば会社での係長、課長、部長といった昇進していくようなものではなく、三つの職制の根底に常に助祭職、すなわち「仕える者」という要素があることを示すものです。
ですから司祭になろうと司教になろうと、「仕える者」であることには変わりないわけです。昔はミサの時、司祭や司教はまず助祭の祭服を着てその上から司祭や司教の祭服を着たんだそうです。職制のベースに「仕える者」という助祭職があることを目に見える形で示したのでしょう。‥夏はずいぶん暑かったでしょうけど。勿論このことは三つの職制に限ったことではなく、修道者やすベての信徒もキリストの「奉仕職」にあずかっているわけですから、同じことが言えるのだと思います.
何かといつも「求めて」しまうわたしたちですが、いやだからこそ、今日のイエスの言葉を思い起こし、【仕える】姿勢を忘れず、自分を【差し出す】ことができるよう、共に祈りたいと思います。
マルコによる福音書(9−30
再び自分の死と復活を予告する。
30一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。31それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引さ渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。32弟子たちはこの言葉がわかからなかったが、怖くて尋ねられなかった。
いちばん偉い者(マタ18ー15、ルカ9ー46)
33一行はカファルナウムに来た。家に着いてからイエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。34彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。35イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」 36そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中にたたせ、抱き上げて言われた。37「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
仕える者になりなさい