この世的価値観にたよる不信

ヨハネによる福音(ヨハネ66069

 

〔そのとき、〕弟子たちの多くの者は〔イエスの話〕を問いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を開いていられようか。」61イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。62それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。63命を与えるのは霊″である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。64しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。65そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」 66このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。67そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。68シモン・ベトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

 

 鈴木 真神父説教 20038249時ミサにて

 

 ヨハネ福音書六章は全体として、教会において極めて早い時期に定着したとされる「ミサ」、つまり聖餐式をモチーフに、そこにキリストの受難の出来事が重ね合わされた形で編集されたものと言われています。ですから実際にこうしたやりとりがイエスと弟子たちとの間にあったとは考えにくく、むしろイエスの言葉を通してヨハネ福音書が提示するキリスト論が浮き彫りにされている、と言ったほうがいいでしょう。今日の箇所では多くの人々が、しかも「弟子たち」がイエスにつまずいた、とあります。少々ショッキングなことですが、これも迫害が厳しさを増しつつあったヨハネ福音書編集の時代、母体となった教会の状況が背景としてあるとも言われています。

ともあれ、福音書において人々がイエスにつまずくという時、そこには大きな共通点があるように思います。目の前で現わされている神の働き、それを人々は《この世的》にしか見られないがゆえにつまずいてしまうのです。この世を超えた存在がキリストを通して示されているのに、それを《この世的》な枠でとらえようとするところに、もともと無理があるわけです。

第一朗読でヨシュア記が読まれましたが、ここで言われている「神々」とは、ようするにいわゆる偶像礼拝のことを指しています。偶像礼拝とは、人間が自分たちに都合の良い神をつくってしまうことです。ヨシュアはイスラエルの人々に選択を迫ります。自分たちの都合の良いようにつくった神で満足するのか、それとも目に見えない唯一絶対の神、生きておられる神へと目を向けるのか、と。新約でもイエスは同じような選択をいつも投げかけています。

《この世的》な価値観によって生きるのか、それとも【福音的価値観】に従って生きていこうとするのか。ある面でわたしたちはすでに知っているはずです。この世に救いを見いだせるのは福音的価値観である、ということを。今日の箇所でベトロが「主よ、わたしたちはだれのところに行きましょうか」と言っているのと同じく、キリストが提示された価値観にこそ、人間が生きることの本当の意味が示されていることを。

知っているはずであるのに、私たちはしばしばそのことを忘れがちで、しばしば《この世的》価値観に頼ろうとしてしまいます。世の中は相変わらず戦争やテロが続き、しかもせっかく平和旬間で平和のために祈った直後に様々な事件が起きて、なんとも暗澹とした気持ちにさせられていますが、世の中だけではなく、教会の中でさえわたしたちはこの【福音的価値観】を忘れがちになります。神が一つ一つのいのちをどれほど愛されているか、そしてそれゆえにわたしたちがどのように生きるよう呼びかけられているのか、共に改めて思い起こす中で【福音的価値観】に常に立ち戻り、ベトロのように信仰を告白したいものです。

「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。」