チャラの精神

 

使徒パウロのエフエソの教会への手紙(エフエソ21318

 [皆さん、〕あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。

 14実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの立法を廃棄されました。

こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、16十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。17キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。18それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。

 

マルコによる福音(マルコ63034

30[そのとき、〕使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。32そこで、一同は舟に乗って自分たちだけで人里離れた所へ行った。33ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に おうぜい駆けつけ、彼らより先に着いた。34イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。

 

鈴木 真神父の説教 7月20日ミサにて

 

 「あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」‥通夜や葬儀の時によくする話ですが、聖書が「休む」「休息」「安息」と訳される言葉を提示する時、そこには深い意味が込められていると言います。文字通り「体を休める」「元気を回復する」といった意味もありますが、もともとは“本来いるべき場所に戻る”“元居たところに帰る”さらに“本質に触れて癒される”という意味を持った言葉です。いわば《大元にたち帰る》、つまり「神」へと立ち戻ること。イエスも一人人里離れた所でよく祈られました。

旧約では、この言葉にからんだ興味深い規定が提示されています。まずは「安息日」。一週間のうち一日は仕事をせずに休むのですが、もともとは“七日のうちせめて一日は、私たちをつくられた神に心を向けましょう”という精神で始まったものだそうです。後に、非常に細かい規定がこの「安息日」に関して決められていきました。福音書ではイエスがファリサイ派の人たちや律法学者たちとした《安息日論争》と言われるものが記されていますが、安息日の規定ばかりを問題にする人々に対してイエスは、「何のために安息日が決められたか考えなさい」と諭します。

次に、七年に一度の「安息の年」。この年は農業をしない、“土地を休ませる”と言います。農業と言えども自然のサイクルを壊すものであることを古代の人たちはわかっていたのでしょう、だからせめて七年に一度は神が造られた元の大地に戻しましょう、と。そしてさらにすごいのは、七年を七たび数えた49年の翌年、50年に一度の「大安息」別名「ヨベルの年」です。この年にはなんと、すべての奴隷は解放され、借金はすべてチャラ、売った先祖伝来の土地はすべて戻り、故郷を離れている人たちは故郷に帰る、とレビ記にあります。こんなすごい決まりが果たして古代イスラエル社会でどれほど厳密に守られていたかは甚だ疑問‥とする聖書学者も多いのですが、とにかくすべてを《元に戻す》という精神がここにあります。奴隷制や借金、土地の売り買いなどは人間社会が生み出した歪みひずみ、せめて50年に一度はそれらをすべてチャラにして、神が造られた元もとのこの世の姿に戻しましょう、ということです。

言うなれば【チャラの精神】。神は人間の“今まで”を問題にしない。いっでも“今”と“これから”。そのことを思い起こすために、とりあえず今までのことはみんな《チャラ》というわけです。最近歳をとったせいか、休みをとることの大切さを実感しますが、私たちにとって「休み」とは何なのか、何のために「休む」のかを考えると、それは究極的には【神に立ち帰る】ためということに気付かされます。神とはどのようなお方なのか、人間を、そしていのちをどのように見ておられるのか‥そのことに私たちが触れる時、本当の意味で“癒され”、明日を生きていく力が与えられるのではないでしょうか。

「休む」ことの深い意味を心に留めたいと思います。