
マルコによる福音(マルコ2・18-22)
18〔そのとき、〕ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」19イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。2。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。
21だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。22また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすればぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」
鈴木神父のお話し 2003年3月2日(日)9時ミサ
織りたての布は目が詰まっていないので、古い布に継ぐと新しい布は縮んで古布は破けてしまう。新しいぶどう酒は、当時のものは、発酵が終わっていないのでガスが出てふくらみ、古い革袋では破けてしまうのです。イエスはここで古いものが良くないとはひとこともいっていません。古さでもっては推し量れない新しさをイエスはもたらしたと言えるのではないかともいます。
イエスのもたらした福音の価値観の新しさは常に時代を超えています。いつも新しい価値観を教えられます。その中心的なメッセージはいつも何が本質か、何が大切なことか、我々人間の目でなく、神の目から見て何が一番大切なことかにつきます。
決して時代に限定されないイエスの新しさ、そこに目を向けるべきだと思います。言い伝えや、習慣、偏見や差別、思いこみ、こういった人を縛ってしまうことからイエスは解放します。
今日の問題は断食です。地球上のさまざまな宗教や文化で断食があるのはおもしろいことです。聖書の時代は、断食は盛んに行われていた行の一つでした。ユダヤ教では神によろこばれるものとされ、罪のあがないや、回心のしるしとして捧げられていました。義務上は年1回ですが、イエスの時代パリサイ派の人々は週2回、月、木に断食していました。洗礼者ヨハネの弟子たちも禁欲的な生活で有名でした。しかしイエスの時代には断食も形骸化していました。習慣として、あるいは正しい人であることの見せかけのためにすることが強くなっていました。イエスも断食するなとは言っていません。マタイの福音書の中にあるように、断食するときは人に気づかれないようにしなさい。わざと人に見せかけるようなことはしてはならないと言っています。逆に言えばそういうことが多かったわけです。そのような形骸化にイエスは疑問を呈しておられます。決して何物にも縛られないイエスの姿を見ることができます。そこにこめられたメッセージは何のために断食をするのかを考えてみなさいという問いかけであろうと思います。
教会が生まれて早い時期に断食の習慣が再び取り入れられました。パウロの影響だと思われますが、主の受難を思い水曜日と金曜日に断食をしていました。今、灰の水曜日で四旬節がはじまるのは、この水曜日の断食に関係があるとされています。今日のカトリックでは断食は年に二回、灰の水曜日と聖金曜日です。断食といってもいろいろと条件が付いています。まず大斉は一日にまともな食事は一食だけにすることです。小斉は肉を食べないということですが、これは西欧的な習慣に基づくもので、我々日本人には魚もいいとなれば何も不自由がないことになりますが、彼ら西欧人にとって肉は断つことは、我々が米を断つことと同じだとなれば、結構きついこととわかります。
さて断食の意味づけですが、私はこんな風に考えています。ものがあふれ飽食の時代に、せめて年二回くらい空腹を体験する必要があるのではないか。普段食べることに何の不自由もしていないし、捨てられる食べ物も沢山ある一方、世界のあちこちに、また身近にも食べるのに事欠く人もいるのです。年にたった二回ですが、断食してみると、普段は考えないことを考えるようになります。カツ丼で頭がいっぱいになったりします。
それぞれ皆さんの意味づけをもって断食の日をお迎えになっていただきたいと思います。
今年は特に重要な日になりました。先週教皇様から全カトリック信徒に向けたメッセージが出ました。その中で、灰の水曜日には中東の平和のために祈り、断食するようにと、また聖母に捧げられた聖堂においては、ロザリオの祈りを捧げるようにと述べておられます。
茅ヶ崎教会は無原罪の聖母マリアに捧げられた教会です。教皇様のお勧めにそって灰の水曜日にロザリオの祈りを捧げたいと思います。
教皇、「灰の水曜日」
平和のために祈りと断食を
(2003.2.23)
教皇ヨハネ・パウロ2世は、23日、日曜正午恒例のアンジエラスの祈りの集いを行なわれた。
この際の説教で、教皇は、戦争の危険をはらんだ現在の緊迫した世界情勢に、今一度、人々の注意を向けられた。
教皇は、宗教は異なってもすべての信仰ある人々は、「対立するところに幸福はなく.テロリズムと戦争の論理に人類の未来の保証はない」と宣言すべきと話された。
そして,載皇は特にキリスト者の平和への義務を説かれ、来る3月5日の「灰の水曜日」(復活祭の準備期間である「四旬節」の初日)には.すべての信者は平和のために祈り、断食するようにと申びかけられた。
説教の最後に、教皇は「平和のために働く人々は幸い、その人々は神の子と呼ばれる」(マタイ5.9)というイエスの言葉を引用され.この言葉が世界に再びカ強く響き、受け入れられるよう.「平和の元后」聖母マリアに祈られた。