マルコ1:1〜8
洗礼者ヨハネ、教えを宣べる
1神の子イエス・キリストの福音の初め。2預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。3荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』
そのとおり、4洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を述べ伝えた。5ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。6ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。8わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で、洗礼をお授けになる。」
2005.12.4待降節第2主日鈴木真神父の説教
毎年待降節の第2、第3主日には、洗礼者ヨハネの箇所が読まれることになっています。救い主到来の準備に言わば徹した「洗礼者ヨハネ」の存在に目を向けることによって、わたしたちも「主の降誕」に向けての準備を改めて意識するため、ということでしょうか。御存知のようにイエス降誕に関する記事は、福音書の中でもマタイとルカにしかありません。にもかかわらず、四つの福音書すべてが「洗礼者ヨハネ」に関しては様々に描いています.
それにはいくつかの理由があるわけですが、一つ言えるのは、救い主到来の出来事がまさにその「準備」の時からすでに姶まっている、それを福音書は強調しているということでしょう。無論長いスパンで見れば、今日の福音に引用されている旧約の箇所や、第一朗読のイザヤ書からもわかるように、「救い主の到来」はイエスがこの世に来られる何百年も前から預言されているわけで、そこからすれば旧約それ自体がもうすでに【神の歴史への介入】の準備段階であったとも言えます。思いもよらない時から、神の働きの「準備」は始まっていたのです。
福音書の中でいつも興味深く読むのは、これほどまでに救い主到来を告げ知らせたことが強調される当の洗礼者ヨハネが、実際にイエスが来られると「本当にこの人か?」といぶかってしまうところです。洗礼者ヨハネの中にあった「メシア」のイメージは、罪を厳しく断罪する言わば
「審判者」でした。ところがイエスは当時罪人というレッテルを貼られた人たちとばかり共にいる。その頃すでに投獄されていたヨハネは、わざわざ獄中から弟子たちを遣わして、イエスに「来たるべきお方はあなたですか?それとも他の方を待たなければなりませんか?」と聞かせています。自信を持ってメシア到来を告げ知らせた洗礼者ヨハネでさえ、そのお方が何を、どのようになさるかは知らなかったのです。神のなさるわざは、人間には本当のところ分からないものです。
わたしたちにも同じことが言えるでしょう。わたしたちのうちに実現する【神のわざ】、それがいつ、どのようになされるかは往々にしてわたしたちの想像をはるかに超えています。でも、その出来事に向けての「準備」はすでに始まっていて、わたしたちは本当にはわかっていないその出来事の「準備」の道具としてすでに使われているのです。
何度も話してきましたが、わたしはかなり不純な動機で神学校に入りましたし、司祭になる決心などその時点ではしていませんでした。でも今振り返ってみると、その「準備」はことによったらわたしが神学校に入るもっと前から、すでに始まっていたことを強く感じます。まあ、大体においてそういうことは後から気が付くものです。
結婚式を司式するたびに、同じようなことを感じます。結婚に導かれるカップルは、出会った時から、いやあるいはそのもっと前から、結婚に向けての「準備」が姶まっていたのだ、と。毎年この季節になると思うのですが、どうも世間は“クリスマス”になってしまうのが早過ぎる。スーパーやコンビニに入るとすでにクリスマスキャロルがガンガン流れていて、「まだ早い!まだ聞きたくない!!」と耳を覆いたくなります。が、このように考えていくと、待降節を迎えたわたしたちにとって、ある意味で今年の「主の降誕」の出来事はすでに姶まっているとも言えるでしょう。
問題は、今年、この時、わたしたちの中で【「主の降誕」という出来事】がどのように位置づけられているかです。勿論本当のそれの“位置付け”は神によって決められていて、具体的にはわたしたちには分からないのかも知れません。でもその出来事の「準備」のために、わたしたちはもうすでに神に使われているのです。
今日これから、入門式が行われます。入門式を受けられる方にとっても、ある「準備」がすでに神によって姶められています。ある方にとってはそれは洗礼に向けてのものかも知れませんが、もっと大きく考えれば、キリストを通して神と交わること、その【出来事】に招かれているのだと言えるでしょう。入門式によって「求道者」としてわたしたちの共同体に加えられる兄弟姉妹と心を合わせ、【神の準備の道具】として、共に働くことができるように祈りましょう。
