ヨイコノミライ
★★★★★

メイド諸君!
★★★★★

いちごの学校
★★★★☆

メガネ×パルフェ!
★★★☆☆

ヨイコノミライ 小学館:IKKI COMICS / 2006年
 僕の夢は、サッカー選手でした。
 その後、漫画家で、今は編集者です。
 青木さん。
 夢はつぶれたり、消えたりするものじゃなくて、ただ、形を変えるだけなんです。
 16歳の青木杏さんの、今の、夢は……?



 本作には多々素晴らしい台詞もあった。
 正直言えば、冒頭の引用は色々と迷いはしたのだけれど、作中で最も優しい台詞だと感じたものを選んだ。

 マンガを読んで感情を揺すぶられることは多々あった。最近だと『すんドめ』なんかがそう。胸が痛くなる。
 が、読んでいて血の気が引き、吐いたのは初めてだった。

 主人公・井之上広海は門倉高校漫画研究会の部長。
 子供の頃はサッカーに明け暮れる少年だったが、『スラムダンク』を切欠にマンガにのめり込み、編集者を目指し漫画研究会に入部する。
 だが、漫画研究会は彼の理想とは異なる場所だった。ただのオタクが駄弁るだけの場所。
 メンバーも自己を客観視出来ず、それでいてプライドだけは超一流の人間ばかり。

 そんな中、ある切欠で知り合った青木杏から、部誌の発行を提案される。
 具体的な目標が出来、一応は活気が出る研究会。だが、その裏で青木杏は策動する。
 現実を直視しなかった人間に、現実を突き付けたらどうなるか。その答えがここにはある。

 努力もせず口ばかりで夢を語る少女。自分だけが正しいと思い込む自称批評家。悪い意味で限りなく女性的なナルシスト。歪んだ依存症。
 イタイね。心当たりがあって痛過ぎる。と、言うかこの中に何人、昔の私がいることか。

 杏の行動によって、各人の心の闇が浮き彫りにされていく。
「自分は特別なんだ」
「自分だけが判っている」
「自分はまだ本気を出していないだけだ」
 そんなものは子供の時分に誰しもが思うことなのだけれど、いつかは現実に気付く。必ずだ。
 プロ野球選手になりたかった小学生は、中学生になり、高校生になれば気付く。「俺はプロ野球選手にはなれないんだ」と。別にそれは特別なことではないんだ。極々普通のこと。

 もう1点、極めて現実的な面がある。
 漫画研究会のメンバー(井之上広海、青木杏、天原強、平松かの子、有栖川萌絵、大門夕子、桂坂詩織、内田直、衣笠一輝、衣笠瞬)の内、ルックスの優れたメンバー(井之上、青木、大門、桂坂、衣笠兄弟)は無条件で救われている(救われていると言うか、崩壊はしなかった)。
 一方で、ルックスに恵まれなかった天原、内田は救われなかった。平松は自身のルックスを活かせる機会を得ながらむざむざ逃し、最終的には精神が崩壊した。例外は努力によって才能を開花させた有栖川だけ。
 これは見逃しがちではあるけれど、重要なポイントでもある。現実問題、内面的な問題はさて置き、ルックスによって得られるアドバンテージは決して小さくはない。

 井之上は、理想と現実の差を思い知りながら、それでもまだ前を向いた。
 青木は、無理矢理現実を突き付けながら、最終的には井之上によって救われた。
 天原は、自分の正しさを疑うことが出来ず、自分の意見を押し付けることに終始し、最終的には切り捨てられた。
 平松は、自分の能力の無さを認めることが出来ず、自分を特別な人間だと信じ込み、最終的には精神が崩壊した。
 有栖川は、当初は性格的なイタさも見られたものの、ルックスに恵まれない自己を認め、努力を重ね才能を開花させた。
 大門は、自らぬるま湯である漫画研究会を見限る。
 桂坂は、男嫌いの潔癖症で、依存していた大門から切り捨てられ手首を切る。が、衣笠瞬によって救われる。
 内田は、ストーキングしていた大門から最終通告を突き付けられた。
 衣笠一輝は、売れない物は描いても仕方がないと達観していた。彼だけが何も変わっていない。
 衣笠瞬は、自分の分を知り、ある意味で最も自他を客観視していた。鬱屈した女性観が桂坂と付き合うことによって変わったのかどうか。

 ある意味での肝は、有栖川だと思うんだよね。
 自己を客観視し、研鑽を重ねることにより才能を開花させ、ルックスが恵まれないメンバーで唯一救われた。
 最初は、「だって帰納とか演繹? とか知らないけど漫画描けるもん」と言っていた彼女が、最終的には自ら資料を求め、表現法を学ぶ。
 青木は“努力すれば叶う夢”を否定したが、努力を重ねた結果の象徴として彼女はある。

 一方で、有栖川の対極として平松はある。
 実はルックスに恵まれながらも、そのアドバンテージを全く活かすことが出来ず、最終的には精神が崩壊する。
 自己を客観視出来ず、努力もせずに夢ばかりを語る。知り合いを引き合いに出し、自分を大きく見せようとする。そしてその知り合いは、ただの知り合い以上の何者でもない。
 変わる機会は何度かあった。最大のものは、姉によってキャラクターを作られた時だったか。
 それでも尚、現実を認めることが出来なかった。故に、ルックスに恵まれたメンバーの中で唯一救われなかった。

 連載していた出版社の倒産による打ち切り、そして新出版社での描き下ろし完結という事情もあってか、最終巻は随分性急に終わった。
 未回収の伏線らしき物も見える。まあ、回収されていたら回収されていたで、より痛い物が見えたんじゃないだろうかとは思う。例えば、青木杏と大門夕子は処女じゃないとかね。結構ありえた話じゃないかな。
 それでも、作者の言いたかったことは充分伝わったんじゃないかと思う。

 青木杏の、“巨乳美少女”と言う記号を上手く利用した、“落とし穴”。見事でした。
 無責任に感想を言う人間として、心に深く刻み付けます。
メイド諸君! ワニブックス:月刊コミックガム / 2005-2008年
 鳥取様が好きになってくれはったんは、
 最初から最後まで『メイドのチョコ』で、
 『藤堂千代子』はメイドとご主人様の恋の障害でした



 メイド喫茶の現実を描いた傑作。
 メイド喫茶でバイトしていた友人に聞いてみたら、本当にこんな感じだったんだそうで。

 最初は、ただのメイド喫茶を舞台としたマンガとして始まりながら、2巻以降徐々に本質を見せていく。
 「なんで処女じゃないんですか!」と鳥取は叫ぶ。
 処女だったのは、鳥取の幻想の中でのメイド・チョコに過ぎないのに。
 『ヨイコノミライ』でも提示された、理想の投影に過ぎない他者(『「本音で話そう」ただし、自分の認める範囲で。』と、青木杏は表現していた)は、ここでも貫かれる。

 徹底して提示されるのは、“理想を投影した他者としか対話の出来ないオタク”へのアンチテーゼなのかなぁ。
 最初は自制の出来る人間として描かれていた鳥取は、実は踏み込むのを恐れているだけの人間だった。
 だからこそ、千代子に踏み込まれるとああも脆かった訳だけれど。
 “ご主人様”と“メイド”という、記号化された人間関係から、ただの男女になった時、鳥取と千代子の関係は変わる。
 記号に頼らず、本質を見ていれば何も変わるはずはないのに。

 ラストシーンは、判断に悩むところ。
 鳥取が救われたと見て良いのか、どうか。
 彼が戦うべきなのは、今まで奪われてきた自信や劣等感。それが今は千代子を通して全て見えてしまっている。
 勿論、自力で乗り越えるしかないものなのだけれどね。そんなことは判っているさ、彼も私も。
いちごの学校 少年画報社:ヤングキングアワーズ増刊アワーズプラス / 2006-2007年
 お前の果たすべき責任が、誰にたいするどんなものなのか、よく考えろ。


 「あんたは、さっきから、誠意、誠意と言うが、誠意って、何かね?」と、タマコの叔父さん(所謂菅原文太氏)は仰った。北の国からシリーズ屈指の名シーンである。個人的には、泥の付いた壱万円札とどちらを上にすべきか悩むシーンだ。
 誠意とは何か? 責任とは何か? 誰が、何に対して向けるべきものなのか?
 黒板純も大宮壱吾も、時間をかけて考える必要がある。

 主人公・大宮壱吾は、教え子である板橋くるみと恋愛関係を持ち、妊娠させてしまう。
 結果として板橋くるみは16歳で高校を中退し、大宮と結婚。出産後専業主婦となる。
 壱吾は自主退職の形で職を追われ、家電量販店の店員となる。一応は生徒を妊娠させた責任を取った形だ。
 くるみと結婚し、妻子を養うことで妊娠させた責任を取る。まあ、言ってはなんだが当然のことではある。
 だがその選択は、作中で倫理教師・森田が言った通り、くるみの人生のあらゆる選択肢を摘み取ったことに他ならない。

 壱吾の父、森田教諭、校長がそれぞれ述べたことは真理に他ならない。
 どんなに愛があろうと(乃至は愛があればこそ)、壱吾はくるみを拒むべきだった。それがこそ、本来は教師としての社会に対する(或いは生徒に対する)責任であったはず。
 彼は自身の両親の信頼を裏切り、くるみの(と言うより生徒達の)父母の信頼を裏切り、学校の信頼を裏切ってしまった。
 さて、彼は誰に対してどのような責任を果たすべきなのか。

 くるみには、普通の学生として生きていく権利があった。それは全て、壱吾が摘み取ってしまったものだ。
 生徒から迫られたなんてことは言い訳にはならない。それは教師としての義務を放棄したことに他ならない。
 ならば、くるみを幸せにし、くるみに与えられるはずだった未来を与えてやることが責任なのか? それはまた違うような気がしてならない。

 私は2009年現在、独身だし、女性を妊娠させた事もない。少なくとも、私が把握している限りその様な事実はない。
 正直言えば、経験がない為に上手く読み取れないんだ。
 でもこれだけは言える。壱吾がくるみを幸せにすることは、責任を果たすことではなく、義務に過ぎないのだ。
 彼女には得られるべき幸せがあった。が、今の彼女には暗く遠い道程しか与えられていない。

 ならば、壱吾の責任は全て、これからのくるみに対して果たすべきことだ。
 教師として果たすべきだった責任を取り戻す為に。
メガネ×パルフェ! スクウェア・エニックス / 2007年
 このコはたとえ今死んでしまっても、あたしの中に入りこんでいる。
 その残ったものは、心とは違うものですか?



 全ての、理屈で恋愛しようとするクソッタレどもに捧げる。

 彼らの(或いは彼女らの。まあ、2人なのだからどちらでも良いのだろうけど)作品では珍しく低年齢層中心の雑誌に連載されたもの。
 編集者がダメ出ししたのか自主規制なのかは判らないけど、他の作品に比べて幾分か(や、相当)マイルドな表現になっている。その分判り辛いっちゃ判り辛いけど。

 正直言えば、このエンディングはありなのか? と、思ってしまう。
 結局さー、表向きさらっと終わってるけど、この先に待っているものは修羅場以外にないんじゃね?
 サトウナンキは(或いはきづきあきらなのか?)毎度様々な人間を戯画化して登場させるけれど、今回は自身を戯画化したのではないか? と勘繰りたくもなってしまう。
 ハッピーエンドで終わろうとも、御伽噺は続いていく。王子様と結婚して幸せになったサンドリヨンは、或いは王子の女癖の悪さに悩まさせるかもしれない。夫と息子の確執に巻き込まれて命を失うかもしれない。
 サトウナンキが提示して見せるプロットの最大に魅力はそこにあったんじゃないかなと私は考えていた。『ヨイコノミライ』でも、『メイド諸君!』でも、『いちごの学校』でも、『モン・スール』でもその姿勢は貫かれていた。
 だからこそ、この不自然なまでのエンディングには疑問が残った。