ぼくと、ぼくらの夏
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風少女
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海泡
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枯葉色グッドバイ
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魔女
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彼女はたぶん魔法を使う
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初恋よ、さよならのキスをしよう
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探偵は今夜も憂鬱
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誰もわたしを愛さない
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刺青白書
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夢の終わりとそのつづき
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不良少女
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船宿たき川捕物帳
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ぼくと、ぼくらの夏 | 文春文庫 / 2007年 (初出:1988年 / 文藝春秋) |
「それにしても…本当に誰も来なかったわね。わたしの言い方が悪かったのかしら」 「夏のせいです」 「え?」 「こんな暑いときに、岩沢も、死ぬことはなかった」 高校2年生の夏休み。 戸川春一はふとしたことから、同級生の女の子を被害者とする殺人事件に関わることになる。 一緒に事件を調べるのは、府中のヤクザ・酒井組の娘である酒井麻子。 刑事である父や担任教師・村岡先生も巻き込み、事件は思いもつかない結末を迎える。 私が読んだのは改稿された新装版ですが、初版は1988年。 まさに青春ミステリの歴史的傑作でしょう。 青春ミステリと謳う以上は、当然ミステリ作品の側面と青春小説の側面両方を持っていることになる。 前者は、同級生が自殺を偽装して殺された事件。 後者は、その事件を切欠に親しくなった、酒井麻子との恋愛関係。 無論、本筋は前者であるのだけれど、矢張り本書は『ぼくと、ぼくらの夏』なのである。 この作品に限らず、樋口有介の強みは文章の軽みにある。この軽みが文章にテンポを生み出し、読者を惹きつける訳だ。 開高健が「かるみがしなやかで、的確である」と絶賛したと言うが、それも納得出来る。 勿論、軽みだけではない、深みもある。 作品中で、春一は、ある疑問について父に問い掛ける。 殺人事件の犯人を捕まえることにより、被害者が隠したかったことも明かされてしまう。それでも犯人を捕まえるべきなのか? と。 父は、「社会秩序を維持する為に捕まえるべきだ」と言う。 そして、こう続ける。 「誰も犯人を捕まえる者がいなくて、人殺しでも泥棒でも、やりたい者が好きなことをできる世の中になったら、どうする。暴力的にも権力的にも、力だけが優先されるようになる。現にそういう時代はあったし、今でもそういう国はあるけども、どんなものかな。どっちにしろ人間の価値観の問題で、どんな価値観をもってどんな社会をつくろうともその人間たちの勝手なんだろうが……だから、まあ、俺の気分の問題だ。俺はどっちかっていえば、弱いやつも強いやつにいじめられないで、両方とものんびり生きていける社会が好きだ。そういう社会が嫌いなやつもいるが、俺としては、そういうやつにはちょっと我慢してもらいたい。みんながちょっとずつ我慢する。暴力的なやつには暴力をふるうのを我慢してもらう。権力のあるやつには権力の無理おしを我慢してもらう。おまえのたとえ話なら、その子供の両親にも、つらいだろうがそのつらさを我慢してもらう。社会秩序の問題でもあるし、俺の気分の問題でもある」 これが、凡庸で茫洋と刑事をしていると評されていた、父の台詞である。 私事ではあるが、この台詞を読んだ時胸が震えた。 これこそが民主主義の根源思想であるべきではないか。 青春小説としての面も素晴らしい。 舞台は1980年代後半の東京。巨人の4番は原で、監督は王。 女の子と連絡を取りたい時、今なら携帯にかけるのだろうけど、当時はそんなもの当然なかった。 ならばどうするか? 自宅に電話して取り次いで貰うしかないのである。上手く本人が出れば儲け物。兄弟や母親なら、まあ、妥協点。父親だったら……。 みんな、ドキドキしながら相手の家に電話をしていた。意中の相手が電話に出てくれるようにと祈りながら、電話をかけるのだ。そして声の似ている姉妹を取り違えてしまい、笑い話になったりもする。今となっては懐かしい話だが、そんな時代が確かにあった。 少なくとも、私が世を忍ぶ仮の高校生だった頃は、携帯電話(PHSも含め)を持っている人間はそれほど多くはなかったのだ。 それでも変わらないものもある。 麻子は歳相応の女の子だし、春一も人に慣れている様でまだまだ幼い。 だから麻子はヒステリーを起こすし、春一は付き合いきれないと突き離す。 でも、それはお互いに本心ではない。本心ではないから、内心で焦りながらもそっと行動を起こす。 幼さ故の不器用さが実に微笑ましい。 そして、自分にもこんな時代があったことをふと思い出すのだ。 実に瑞々しく、懐かしい、『ぼくらの夏』。 是非一読願いたい。 |
風少女 A WIND GIRL | 創元推理文庫 / 2007年(初出:1990年 / 文藝春秋) |
「彼女みたいな女は死ぬときも、もっと格好をつけると思ってた。たとえ交通事故で死ぬとしても、相手のクルマはちゃんとBMWだとか」
父危篤の知らせを受けて帰郷した主人公・斎木亮は、中学時代好意を抱いていた川村麗子の妹・川村千里と偶然出会う。 千里に知らされた、麗子の死。 事故死という警察の判断に納得出来ない亮と千里は独自の捜査を進める。 調べるうちに浮かび上がるのは、麗子の死と、あまりに変わってしまった同級生達への違和感。 失ってしまった過去と故郷へ万感の想いを込めた、青春ミステリの傑作。 イメージとしては海泡に近い。執筆時期の差もあって、こちらの方がライトではあるけれど。 失ってしまった幼さ、変わってしまった同級生達。 一方で変わらない故郷や、悪友、家族もいる。 川村麗子や斎木亮の家庭環境の複雑さ、青猫での人間関係など、バックボーンの描写はこちらの方がより緻密で奥深い。 海泡は洋介を巡る翔子と和希の想いや、洋介自身の翔子に向けた想い、智之や浩司の想い等、心理描写に重きをおいていると解釈すれば、そう外れではない。 ま、変化してしまった過去への郷愁は、樋口有介のフォーマットでもあるんですけど。 いずれにせよ、『ぼくと、ぼくらの夏』に並ぶ初期の名作。 是非、一読を。 |
海泡 | 中公文庫 / 2004年(初出:中央公論新社 / 2001年) |
目を閉じたまま、血の気のない唇を、翔子が少し開く。笑う努力なのか、唇が乾いただけなのか、胸だけが弱く、単調な呼吸をくり返す。確実に死へ向かう翔子の細胞に、モルヒネなんかが、どれほど効果があるものか。
木村洋介は6年間を過ごした小笠原へと帰る。実に2年振りの帰郷。 変わらないもの、変わってしまったもの。変わらない友人と、変わってしまった人間関係。 そんな中、閉じられた“楽園”で殺人事件が起こってしまう。 被害者は、主人公の元恋人だった。 小笠原諸島父島を舞台にした、スモールタウンミステリの傑作。 ご多分に漏れず、青春ミステリの側面も持っています。 都会からの帰郷、昔の恋人の死といったモチーフは『風少女』と似ているかな。 実は、『ぼくと、ぼくらの夏』の次に好きな樋口有介作品です。 殺されるのは、主人公の恋人だった少女と、そのストーカー。 殺人事件が起こる以上は犯人もいて、当然犯人探しも大きな要素を占めるのだけれど、私にとっては幼馴染である病弱な少女・丸山翔子との関係の方がより印象的だった。 冒頭に引用した文章も、丸山翔子に関した物。 有体に言ってしまえば、彼女は探偵ごっこのパートナーであり、かつて憧れていた少女に過ぎないのだけれど、主人公が感じる、彼女へのあまりに感傷的な想いが心を打つのだ。 『ぼくと、ぼくらの夏』のような幼さはない。 むしろ、失ってしまった幼さを振り返る苦々しさが全編を覆う。 決して読後感の良いものではないのだけれど、傑作と言っても良いと思う。 |