アウトサイダー的国語教育論(古典編)



1.県国研の「浦島太郎」……何が大事?

 昨日、県の国語教育研究会に6年ぶりに参加しました。それ以前は、7年間ほど続けて研究に参加していたのですが、今回、全くの「浦島太郎」になってしまいました。

 内容は、まさに、そのまま。古典「浦島太郎」!!。
 幹事の方が、他校の生徒を借りて、デモンストレーション的授業を公開された。ご苦労さんです。
 いやまてよ。授業って何?どうやって成立するものなの?
 子どもたち同士の関わりは当然として、先生と生徒との関わりの中で成立するものではないかしらん?だったら、今、目の前の光景は一体何?
 授業内容以前に、この研究会の持ち方自体に、まず「ちょっとまってくれ〜!」ってなってしまった。

 事後の協議会。またまた「浦島太郎」。なんだか難しい専門用語が飛び交っている。何でもっと普段着の言葉で語れないの?ついていけない。
 ついつい「分かりません」と発言してしまう。
 助言者の先生いわく、文章とは、「1に、正しさ。2に、わかりやすさ。3に、豊かさ。」だって。先生のおっしゃる通りです。ところで、それは文章だけですか?
 みなさん、もっと肩の力を抜いて話し合いましょうね。そして、若い方でも遠慮せずに話に入っていける雰囲気を作りましょう。でないと、N先生みたいに、もう来たくないとおっしゃる方が続出しますよ。



2.研究内容に関わってひと言(提言)

 昨年度の研究のご苦労など、皆目知らない私にすれば、疑問だけの「昨年度の成果」です。これは独断……?

滋賀県中学校教育研究会国語部会
<研究主題>
言語の力を育てる国語学習
古典の授業の新展開
−古典の学習で何を学ばせるか−


2年次(平成9年度)の研究

「古典」のよりよい授業への視点(a〜f)
a)比較
 ア)「古文」と「現代文」の比較
 イ)「原作(出典作品)」と「現代に伝わる作品」との比較
 ウ)「作中の登場人物の行動・ものの考え方・価値観」と「現代のそれ」との比較
 エ)「当時の生活のあり方・様子・風俗」と「現代のそれ」との比較
 オ)「原文」といくつもの「口語訳」とをそれぞれに比較

 こうした「比較」を通して明らかになるのは、「時代とともに変わってしまったもの」「時代を越えて変わらないもの」であり、同時にこの活動は、「今」を限りなく見つめる活動でもある。

 「今」って、「今」の何を見つめさせるの?現代社会?それじゃ、現代社会の何を?これじゃまるで社会科じゃないのかな。どうして「現代語」とか「今の日本語」とでもしないのかな。それが、国語科として正当じゃない。私たちが使っている言葉が祖先から伝わった大切なものだということを子どもたちが感じ取ってくれれば、国語科としては大成功じゃないの。

<公開授業に関わって>
課題1「御伽草子」の「浦島太郎」とわたしたちが読んだ昔話の「浦島太郎」との違いを見つけられましたか。

 誰だって古文と現代文が違うことは分かるじゃないか。それをあえて専門的な立場からまたまた難しい言葉で表現(?)させようとする。
 おいおい、まってくれ。それで、楽しい古典の学習が成立するの?

 それでもって、表現させないと「確かさ」がないとおっしゃる。
 知的理解だけが「確かさ」だとでも言うの?感性の「確かさ」だってあるんじゃないの?だから私たちは国語やってんじゃないのかな。
「昔の人って、えろ〜おもろい言葉つこてはったんやな。」これだけでどうしてだめなのかな〜?

 そこで、この難問を振られた助言者の先生がおっしゃるには、「比較の意義、これが課題だ。1年かけて研究せよ。答えは、今は言わない。」
 お〜い、待ってくだされ。それじゃ指導助言になってないよ。そんなこと言うくらいなら「難しいですね。私にも分かりません。一緒に研究しましょう。」ぐらい言ってほしいですね。

 はっきり言って、比べたところで、子どもたちの将来には何の役にも立たないじゃないの。役に立つのは、国語の教師にでもなった子どもたち(つまり私たち)だけじゃない。
 私たちの言葉だって、100年後、200年後には古典なんだよって教えとけばいいんじゃないの。ギャル言葉なんて、アッという間に古典になって、去年流行った言葉なんて使ったら「ふる〜」と軽蔑される。「ふる〜」って、「古典」ってことでしょうが。

 そんなに言う私の古典の導入は、一昨年(1年生では)どうしたかって。「浦島太郎」は、完全無視。いきなり「竹取物語」。初めに言ったことは、「かぐや姫ってセーラームーンのご先祖さんだって知ってるか。……これはUFOの話だよ。……」

課題2 なぜ、このような違いができたと思いますか。あなたの考えを書いてみてください。

 だいたい、こんな現代文とか古文とかややこしい話になったのは、丸谷才一じゃないけれど、例の戦後間もなく行われた「国語改革」のせいのはず。
 子どもたちに答えさせるのは酷じゃないかと思ってしまいます。
 それに、そんなことって何で大事なのかな?違うという事実認識だけで十分じゃないの。それよりか、今に残っている古語を指摘してあげた方が、日本文化の伝統を伝えられるんじゃないの。
 一昨年、「もうできたるなり」(「竹取物語」光村出版)の秘密をものの見事に看破した生徒がいました。「先生、これは”もんでくる”のことですか。」「おお、そのとおりやね。」
ちなみに「もんでくる」とは、湖北方言(長浜弁)で「帰ってくる」という意味の言葉です。

 すでに言われていることですが、古語と方言のつながりを考えさせることは、子どもたちにとって、日常生活の古典とのつながり、日本語の連綿とした伝統を感じ取らせる上で、おもしろい取り組みになるように思いますよ。

b)原文に立ち返る
「原文」そのものに立ち返って、その「古語」の意味やニュアンスをとらえる必要がある。こうした活動こそが、登場人物の心情や考え方などを読みとるときの「たしかさ」を支える活動であるといえる。

 なんで、こんなこと必要なの?現代語さえなかなかとらえられない子どもたちに、そんなこと可能なの?
 それよりも、昔の言葉って「おもしろいね」。今のこの言葉の源なんだよ「不思議だね」などといったことだけではいけないのかな?
 また、人物の心情や考え方なんて、現代語訳で十分じゃないの?本当に「たしかさ」を求めるのなら、そっちの方がまだ可能じゃないの?古文で?相手は中学生だよ。国語の専門家じゃないんだ。

c)声に出して読む
 「古文」を「声」に出して読むことの重要性はこれまでの多くの授業実践の中で指摘されている。

 これは、国語指導者としては当たり前で、何も「古文」に限ったことじゃないはず。わが家の子どもたちは小学校の低学年のとき、宿題で毎日音読をしていましたよ。そして、親が「朗読カード」なるものに評価を記入していましたよ。これが原点じゃないのかな。
 今、普段の授業で、音読の実践が不足しているだけじゃない。

d)ワークシートの工夫
 「古典」の授業に限らず、生徒が手にするワークシートは、よりよく工夫したい。学習のねらいを効率よく達成するものだけでなく、特に、生活(衣食住)の様子や風俗習慣などの補助資料的なものも活用したい。また、イラストなどの視覚的なものを取り入れたワークシートに生徒は学習意欲を示すので工夫したい。

 そうそう、私もかつてはこの呪縛にとらわれていました。
 しかし、東南アジアの山々の現状を見るにつけ、森林資源の無駄遣いはするまいと決心しました。
 また、資源(廃品)回収の現状を知っていますか。今や大変な状況です。一旦切ってしまった木です。せめて何度でも再生して利用したいのですが、経済効率とやらで、どうもうまくいきません。ダイオキシン問題も不安です。子どもたちに「地球に優しい人になろう」と呼びかけています。学校から印刷物を削減しましょう。

 と考えて、授業の構成を考えたとき、今まで見えてこなかったことが見えてきました。先日、1年生の「渡り鳥の不思議」で、「渡り鳥にはどんな種類があるのかまとめてみよう。」とだけ指示しました。
 子どもたちは様々なまとめ方をしましたが、クラスで2名、表を使ってまとめた生徒がいました。さっそく、黒板に枠組みだけ書かせました。「素晴らしいまとめ方だ」とほめました。他の生徒は、一斉にまねをし出しました。そうこうするうちに、教科書の日本地図を写して、表と地図とを結びつけはじめた生徒が1名でてきました。早速、黒板に書かせました。他の生徒は、また、まねをし出しました。
授業は、「今日は、説明文のまとめ方がわかってよかったね。」で終わりました。
 うっかりすると、この表を指導者が与えていないかなと思えてくるのです。私は、以前、この過ちを繰り返してきたように思います。(まあ、ねらいによって違うのは当然といえば当然ですが……。)

 ついでに言えば、もう一つ実践していることがあります。それは、板書を極力しないことです。口頭で言ってメモさせています。「黒板に書いてあることをノートに写す」などという活動は、学校の中だけでしか通用しません。私たちのいわゆる職員会議だって、話し言葉をメモしています。将来間違いなく必要となるそうしたメモをする力を、教科指導の中で養っているのかといえば、疑問です。
 他教科では、ほどんど、板書をノートに写させています。中には、ご丁寧にノートを提出させて、それを点検されています。そして、それが学習の基本の一つだとおっしゃいます。
 本当でしょうか。子どもは、黒板に書いてあることをその通りに写せばいいのです。そこで、将来に結びつくどんな力が養われるのでしょうか。なんだかちょっと違うぞって思います。
 視写なら徹底して視写をさせればいいのです。国語の場合、本文をしっかりと視写することには、意義あることと思いますが、教師の板書を写して、どれだけ価値があるのか、なんだか中途半端な感じがします。(これは、まあ、国語科だから気楽なことを言っていられるのでしょうね。英語なんぞは、やっぱり板書を写させないとやってられないでしょうね。)

e)表現や創作
現代の自分のものと比べながら、筆者のものの考え方・見方をあらためて見つめることをねらいとして「表現・創作」の活動が考えられる。また、「作文」という表現手段に限らず、「4コママンガ」に仕上げ直すといった表現活動も考えられる。

 ここでも「比べながら」ってありますね。「現代の自分のもの」って何なんでしょうね。古文なんて所詮大人が書いた文章です。現代人と昔の人の違いより、子どもと大人の違いの方が大きいんじゃないでしょうかね。

 それから、表現活動って、もっと自由なものじゃないでしょうか。朗読だって表現でしょう。また、紙芝居にすることにも、場面分け、情景把握、現代語訳、などといった理解要素があり、それに加えて、美術的表現力が求められます。もちろん、劇化だって、場面把握、心情把握、といった理解と身体表現、音声表現が絡み合います。俳句や短歌(子どもたちが本物を作れるかは別にして)に表現するってことだってあります。
 それらを自由に選択させ、自分の得意な分野、得意な手法で表現させることに意味があるように思います。一人ひとり違いがあること、表現手法もいろいろあることが、大切かなとも思います。個性化って、そういうことじゃないでしょうか。

f)郷土の古典資料の活用
教科書に取り上げられているものだけでなく、「郷土」に息づく「古典」を授業の場に取り入れ、「郷土」の人々の思いを探っていく活動は、「選択国語」への発展や「総合学習」への発展の可能性を十分に持っており、「生涯学習社会」を生き抜ける生徒を育てるこれからの教育現場に大いに求めらていくものとなるだろう。「郷土」に息づく「古典」をどのような形で教材化したり、補助資料としてどのように活用していけるかが今後の授業実践の課題の一つといえよう。

 これは、「昔話」を取り上げようということですね。楽しくなりそうな活動で、大賛成です。
 でも、それを共同研究するの?「郷土」でしょ。私の長浜なら長浜の昔話がありますが、それは長浜の子どもたちにとっての「郷土の昔話」であって、他のところの子どもたちにとっては、そうではないでしょう。「滋賀の昔話」とでも大枠でとらえさせるのですか。ちょっとそれは無理がありますよ。滋賀県全般に関わる昔話ってありましたっけ?

 それから、「選択国語」や「総合学習」への発展の可能性を十分に持っいるということですが、可能性ではなく、そうした時間や機会に扱うべきものじゃないですかね。



3.最後にひと言

 「私たち国語教師は、どれだけ日常生活で古典を必要としているのか。古典で学んだことが、日常生活で生かされているのか。」これは、N先生の投げかけられた言葉でした。
 私の場合、残念ながら(?)ほどんどなきに等しいですよ。国語教師でもかくのごとしとすれば、古典の学習を通して、子どもたちに何を身につけさせるべきなのか、そこが出発点のような気がします。子どもたちのとって、将来生きてはたらく力ってなんなんでしょうね。




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Last Update 1998/06/10
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