共同企画 「芭蕉ネット」



長浜北中 3年6組 2班
メンバー松井、澤田、藤川@
共通課題芭蕉の旅の動機と、目的を探り先人の跡を慕う。



芭蕉はに出た。そして・・・・

 江東区は、松尾芭蕉”ゆかりの地”です。芭蕉は、1680年それまでの生活をやめて江戸日本橋から深川の草庵に移り住みました。そして、この庵を拠点に新しい俳諧活動をはじめ、多くの名句や”奥の細道”などの記行文を残しています。
この草庵は、門人から贈られた芭蕉の株が生い茂ったところから”芭蕉庵”と呼ばれ、芭蕉没後、武家屋敷内に取り込まれて保存されましたが、幕末から明治にかけて消失しました。大正6年の大津波の後、常盤・町目から”芭蕉遺愛の石の蛙”が出土し、同10年に東京府は、この地を”芭蕉翁古池の跡”と指定しました。


隅田川(当時は「大川」)のほとりの芭蕉稲荷のすぐ向かいの小公園(芭蕉記念館別館)の芭蕉像です。
平成七年四月の建立で、出来立てどす。
ヒゲをたくわえ蓄え、ゆったり座するこの像は、門人杉風の描いた絵をもとにして造られた。

(上の写真は、栃木県足利市立西中学校の小川先生から送っていただきました。)


序章

月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は日〃旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか片雲の風にさそはれて、漂白の思ひやまず、海濱にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひてやゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松嶋の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、




旅立

芭蕉は旅に憧れておりました。 
「いつの日か絶対、古人みたく旅して立派な詩人になるんだ。それで死ねたら最高さ」



山梨大学の伊藤洋先生のページを紹介します。

芭蕉DB(伊藤洋のページ−山梨大学)
http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/basho.htm

芭蕉の年表は、こちらです。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/Default.htm



松尾芭蕉の生き方。

僕たちの意見を、メールで、お二人の先生に送りました。
それに対して、丁寧なアドバイスをいただきました。
ありがとうございました。
  • 伊藤 洋先生(山梨大学工学部)
  • 安倍冨士男先生(盛岡白百合学園中学高等学校)

先生方へ送らせていただいたメールの内容
突然、メールを送らせていただく失礼をお許し下さい。
僕たちは滋賀県長浜市立北中学校3年6組2班の澤田、藤川、松井です。

今、僕たちは、国語の授業で芭蕉について調べています。
インターネットを使って調べ学習をしていますが、みんなで先生のWebPageを参考にさせていただいています。

先生なら、芭蕉について、いろいろとご存じなのではないかと思い、このメールを送らせていただきました。

僕たちは、主に旅の目的について探ってみたいと思い、NHKのビデオ「歴史発見 奥の細道 芭蕉 謎の旅路」を見ました。
その中で、奥の細道と、同行していた曽良という人の旅日記とにくいちがいがあったということを知りました。

また、ビデオでは、芭蕉が伊達藩の内情を探っていた様なことが言われていました。これは、本当のことなのでしょうか。私たちのイメージにある芭蕉とは、大分違います。
それで、このことについて、先生のご意見をうかがいたいと思いメ−ルを送らせていただきました。

ところで、このビデオを見た後、私たちも、芭蕉が忍者だったらと、楽しく想像を巡らせています。
グループのメンバーが話し合ったところ、次のような理由で、芭蕉は忍者だったのではないかとの結論に達しました。

1.伊賀地方出身。(忍者ハットリ君と同じ)

2.40代のくせに全国を歩いた脚力。

3.鋭い目つき。

4.伊達藩の内情を探っていたという噂。

これらの理由については、想像の域を出ませんが、これについても、先生のご意見をお伺いできればと思います。
また、奥の細道と曽良の旅日記の日付の違いなどについても、先生のご意見をお伺いできたらと思います。

お忙しいところ、申し訳ありません。お返事を楽しみに待っています。


芭蕉は、忍者だったという説についての僕達の考え。
<伊藤 洋先生(山梨大学工学部)からいただいたお返事の一部>

芭蕉の忍者説についてはとても楽しいですね.しかし,芭蕉忍者説は昔から言われていました.なんと言っても服部半蔵の故郷伊賀上野の出身ですからね.しかしどうもこれも嘘話のようです.私のWWWにも掲載していますように芭蕉はたくさんの手紙を書いています.現存しているものだけでもこんなに沢山あるのですから,紛失したものを入れれば膨大な数に上ると思われます.まさかスパイのプロがこんなに手紙を書いていたらどこにいるかすぐわかってしまいますね.私は忍者やスパイをやったことが無いので分かりませんが,多分そういう職業の人は余計な手紙など出さないと思いますね.足跡がばれてしまいますから.仙台には5月4日から8日の朝まで滞在していますが,加衛門という風流人の案内で亀岡八幡宮や宮城野原,榴ケ岡など名所旧跡を見て回っているようで,どうもスパイの仕事に専念していた風はありませんね.
仙台でも多賀城でも国主の伊達正宗の話が出てきますから,スパイをしていたらやっぱりそんな名前は書かないでしょうからね.また,仙台より加賀百万石の前田家は幕府にとってもっと脅威でしたが,金沢でスパイをやっていたと言うような話もありません.
がっかりさせちゃって申し訳ないのだけれど,芭蕉先生はどうも体育会系ではなくて病弱のため忍者の勤まるような立派な健康体を持っていませんでした.しょっちゅう胃が痛かったり,痔疾といって肛門の病気を持っていたりで,下っ腹に力を入れて塀を飛び越えるような体力はまったく無かったようですね.
40代で旅をしているのも,芭蕉は「旅に死ぬ」ということを一つの美学としていた人でした.だから,ひょいひょいと旅をしたのではなくて,ふーふーいいながら旅をしていたのですね.彼は,西行や鴨長明,兼好法師,杜甫や李白などを最高のモデルと考えていましたので...


、NHK歴史発見「奥の細道芭蕉謎の旅路」で見た曽良の旅日記と奥の細道とのズレについて

<伊藤 洋先生(山梨大学工学部)からいただいたお返事の一部>

お尋ねの曾良旅日記との日時のずれですが,芭蕉が「奥の細道」を執筆した。のが何時だったのは定かではありませんが,どうも元禄5年6月以降ではないかと言われています.そうだとすると奥の細道の旅そのものは元禄2年3月27日から8月までですから,ずいぶん後になって書いたものということですね.芭蕉自身がメモはつけていたかもしれませんが,いずれにしても記憶は薄れていたはずです.芭蕉は,この旅の後はしばらく皆さんの故郷膳所の義仲寺や京都の嵯峨野,また石山の奥
国分山の麓の幻住庵に滞在し,「幻住庵の記」・「嵯峨日記」など多くの作品を書いていますからますます記憶は薄らいでいたと思われます.これは別の見方をすれば,芭蕉にとって「奥の細道」のような名作が熟成される貴重な時間であったのかもしれませんね.ともあれそういうわけで旅日記との時間のずれが生じたのは記憶の薄らいだためだと私は思います.


楽しみにしていた松島で俳句を詠まなかったのはなぜだろう?



感想

松尾芭蕉は、いろんな古人を人生の手本にして
自分の人生を送ったわけで、自分も手本にされるようなビックアーティストになれたんだから
やっぱりすごい人だと思った。
芭蕉のことを調べていて芭蕉ってナルシスティックな人だったんじゃないかと思った。
わたし、感動、toばしょさんを、しって、よかった。feel so good

この人は自分の人生に満足したと思う。。。。。



ホ−ムペ−ジ作成で参考にしたページ



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Last modified 2000/02/14


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