共同企画 「芭蕉ネット」




長浜北中 3年5組 12班
メンバー
高田
共通課題義仲寺や幻住庵での生活を調べる



「幻住庵」について

幻住庵は、石山の近津尾神社境内にあります。ここは芭蕉が4ヶ月間過ごしたとされている草庵です。奥の細道の旅を終えた翌年からここに入り、「奥の細道」と並ぶと称される「幻住庵の記」を書き上げました。また、有名な「とくとくの清水」も今なお流れています。 
 幻住庵については、曲水が芭蕉が来るときに備えて修復したもので、滋賀県の大津市にあります。
芭蕉はこの幻住庵を「とても静かなところで、風景がとてもおもしろいところ」とほめています。
また、芭蕉は義仲寺に移るまでの四ヶ月間、この幻住庵に住んでいたとされています。
その滞在期間中に書かれたのが「幻住庵記」です。

「とくとくの清水」について

芭蕉はこの「とくとくの清水」で自炊などをしていました。
芭蕉の生活を支えた場所の一つといえるのではないのかと思います。
またこれは中国の昔の偉い人が「とくとくの清水」というところで自炊していたのをそのまままねたものだそうです。


疑問1
奥の細道の旅から帰った芭蕉は国分山の幻住庵へ移り住み、後に義仲寺に再び移り住みました。奥の細道でも通っていない場所なのになぜここへ来たのでしょうか。義仲寺に来たのは木曽義仲の墓があったからだと思いますが(芭蕉は義仲が好きだったのではないかなぁ?)幻住庵はわかりません。それなのに「幻住庵記」まで書いたのはなぜなのでしょうか?



これは
「先づ頼む椎の木も有り夏木立」
(まずたのむ しいのきもあり なつこだち)
という句が書かれた句碑です。この句は「幻住庵の記」の最後を締めくくる句です。いったい芭蕉はどういう思いでこの句を書いたのでしょうか?
「椎の木が生い茂っている夏の日にまず、これを頼みたい。」(?)
僕にはここまでしかわかりません。もし、こういう思いで芭蕉が書いた句なら、いったい何を頼みたかったのでしょうか?
また調べます。
[放浪を続けてきた私であるが、ここ幻住庵を頼みとして、身を寄せよう。頼もしげな椎の木もあることだし、夏木立も涼しげであることよ。]といったような意味でしょうか。(先生)




義仲寺と芭蕉の墓について
 
義仲寺は旧東海道沿いにあるお寺です。義仲寺は「ぎちゅうじ」と読むのですが、本来は源平の合戦で戦死した木曽義仲(きそよしなか)の名前に由来しています。もちろん義仲の墓もこの寺の境内にあり、、今もこの寺に眠っています。その墓は、木曽塚ともよばれています。
また、この寺は芭蕉も何度か訪れたといわれています。また、住んでいたとも言われている寺で、大変芭蕉に関わりの深い場所です。芭蕉は亡くなる時にこの寺に葬ってほしいという遺言を残しました。それで、義仲の墓の隣に芭蕉の墓がたっています。
また、芭蕉の墓がここにあることから、句碑なども多数建てられていて、全体が国の史跡に指定されています。
 芭蕉の墓

義仲寺は膳所と大津の中間にあるお寺です。また、芭蕉は今もこの地の奥深くに眠っています。 
「木曽殿と背中合わせの寒さかな」という句があり、また、木曽義仲の墓と隣り合わせに葬ってくれという遺言もあるほど、芭蕉は木曽義仲のことが好きなんだと思います。芭蕉は五十一年間の人生の最後を最高の気分で終えたのではないでしょうか。僕も死ぬときは(縁起でもないけど)やっぱりそういう気持ちでいたいですね。

疑問2
芭蕉の墓はなぜこんなに小さいのでしょうか。上の写真を見てもわかるように、添えられている花とほとんど変わらないような大きさです。この大きさは芭蕉の人物像や人生観を物語っているんでしょうか。
確かに芭蕉は質素を好んでいたと思われているけど、それだけの理由で片づけていいのでしょうか。それとも芭蕉はちいさいものを好んでいたのでしょうか。いずれにしても墓が小さいことは事実 だから疑問です。
(ちなみに僕は芭蕉が頼んだんだと思います。今までの調べで芭蕉がそういう人物だと思うから・・・。
みなさんはどう思われますか?)



「辞世の句」について
「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」という句が書かれた句碑です。
まったく素人の僕の考えですが、この句は「芭蕉が旅の疲れなどで病の床についてしまった。芭蕉は自分の死期が近づいていることを悟り、まだ旅をしたいという思いが夢となって、もう叶わない(動けない)枯れ果てた心の中を回っている。」という句に思えます。

(芭蕉の思いはどうだったのか確かめることはできませんが、僕なりに迫ってみました)



「古池や蛙飛びこむ水の音」の句碑

この句碑も義仲寺にあり、芭蕉の代表的な作品です。
芭蕉は蛙が一匹飛び込むその音さえも逃さずに、その繊細な心に感じ、とてもすばらしい作品に仕上げていくような人だから毎日いろんな発見があったんだろうなと思います。すべてのことに興味を示し、すべてのことに『思い』を込め・・・。
「僕にもそんなこと(毎日新しい発見を見つけること)ができたらな」と思いながらも『repeat』な毎日を送る僕なのです・・・。



芭蕉の人物像について
芭蕉の肖像画
芭蕉の人物像について調べてみたところ、すごいことがわかりました。芭蕉は1682年12月28日に芭蕉庵が焼けてから多くの旅に出始め、そして1694年10月12日に亡くなられました。その約11年10ヶ月の間に6年9ヶ月を江戸で過ごし、5年2ヶ月をなんと旅をして過ごしているのです。パーセンテージで表すと45%を旅をしていることになるのです。現代の整備された道路でも5年2ヶ月も旅をするのは困難なことなのに、昔の整備されていない道路で旅をするのは想像以上に困難だと思います。それを自分からすすんで続けるなんて、芭蕉はとてもタフな人だったんだと思います。



感想
僕はこの学習を通して、あまり明らかにされていない芭蕉の行動の一部にふれることができました。「奥の細道」の旅は有名だけど、その後の芭蕉の記録は少なく、あまりくわしいことまではわからなかったのですが、幻住庵での生活の一部や義仲寺での生活の一部を調べることができよかったです。しかし、まだ二つの疑問が残っています。これらの疑問が自分なりに解決するまで、少しずつでも調べていこうと思っています。また、困難な旅を続ける芭蕉のタフですばらしい生き様に僕は感動と尊敬を覚えました。本当はつらかっただろうに、足が痛かっただろうに旅を続けた本当の目的はわかりません。しかし、どんなにつらくてもやり通す芭蕉の姿は「真の男」って感じがします。今までは芭蕉のことは「俳句を世に広めた人」としか知らなかったけど、芭蕉を調べれば調べるほどそのすごさを痛感し、 (こんな生き方ができたらいいなぁ。)と思うほどひかれていきました。僕も芭蕉の生き様から学んだ「一つのことをやり抜く」ということを肝に銘じ、これからの受験や将来に向けてがんばりたいと思います。



お・わ・り


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Last modified 2000/02/14