共同企画 「芭蕉ネット」



長浜北中 3年5組 10班
メンバー堀居 市橋 藤井
共通課題芭蕉の生い立ちと俳句との出会い



芭蕉の生い立ちと俳句との出会い



芭蕉の人生や俳句への思い
 かく言へばとて、ひたぶるに閑寂(かんじゃく)を好み、山野に跡を隠さむとにはあらず。やや病身、人に倦(う)んで、世をいとひし人に似たり。つらつら年月の移り来し拙(つたな)き身の科(とが)を思ふに、ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは佛籬祖室(ぶつりそしつ)の扉に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情(じょう)を労じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる。「楽天(らくてん)は五臓の神(しん)を破り、老杜(ろうと)は痩(や)せたり。賢愚(けんぐ)文質(ぶんしつ)の等しからざるも、いづれか幻(まぼろし)の住みかならずや」と、思ひ捨てて臥(ふ)しぬ。



松尾芭蕉、伊賀上野赤坂町に誕生。出生月日不祥。幼名金作
奥の細道
付録 『俳諧書留』
元禄2年3月27日〜9月6日(46歳)

松尾芭蕉(まつお・ばしょう)は江戸時代3代将軍家光(いえみつ)のころの1644年に生まれました。生まれた場所は上野市赤坂町と伊賀町柘植町という2つの説があります。
 日本中を歩いて旅をし、「奥の細道(ほそみち)」「更科紀行(さらしなきこう)」などの句集(くしゅう)を残しました。5文字・7文字・5文字(17文字)で様々な情景(じょうけい)を表す俳句(はいく)という形の元を作った人として有名です。俳聖とよばれ、日本だけでなく、世界の詩人として、その作品が愛されています。

芭蕉の俳句は演劇的であり、諧謔や憂鬱、恍惚や混迷を、誇張して作品の中で表現しました。これらドラマチックな表現は逆説的な性格を持っていました。彼が表現する諧謔や絶望は、人間の可能性を肯定し歌い上げるための道具ではありません。むしろ芭蕉の文学は、人間の所為を描けば描くほどに、人間存在の小ささがかえって浮き彫りになり、自然の力(造化の力)の偉大さが読者に意識されるというような性格を持っています。
34歳のときに宗匠立机(俳句の師匠として一門を率いる手続き)をしました。当時の彼の収入源は神田上水の水道工事の書記と俳句の会合での採点をする時の点料と指導料でした。


芭蕉年表(晩年編)
年号月日内           容
元禄2 上旬、『奥の細道』の旅に備えて杉山杉風の別宅に転居
元禄2 3/27 『奥の細道の旅に出発。千住から草加着。(陽暦5月16日)
元禄25/09 『奥の細道』の旅で松島に到着
元禄2 5/13 『奥の細道』の旅で平泉へ。一ノ関まで戻る
元禄25/27 『奥の細道』の旅で立石寺参詣。宿坊に泊る。蝉の声
元禄2 6/03 『奥の細道』の旅で最上川舟下り。羽黒山南谷別院に6泊
元禄2 8/14 『奥の細道』で敦賀着。名月は雨模様
元禄28/21『奥の細道』終点大垣到着。近藤如行宅へ落着く
元禄29/03 曾良、長島より大垣へ来る
元禄2
伊勢神宮遷宮式奉拝のため大垣の如行宅を出発。『奥の細道』終り。曽良・路通・李下同道して揖斐川経由で伊勢へ。長島大智院に3泊。曾良と別れる。この頃 『紙衾の記』執筆
元禄34/06 国分山幻住庵に入庵。7月23日まで滞在。この後『幻住庵の記』執筆開始
元禄7
『おくのほそ道』完成。柏木儀左衛門に清書依頼
元禄7
死期を悟り、兄松尾半左衛門宛と口述筆記3通の遺書を認める
元禄7 10/12午後4時、大阪南御堂前花屋仁右衛門宅で死去。享年51歳。夜、遺骸を川舟で伏見から大津へ運ぶ
元禄710/13 芭蕉の遺骸、膳所義仲寺に到着
元禄710/14午前零時、遺骸を義仲寺境内に埋葬。導士・直愚上人。門人80人を含む300余人が会葬



生誕の地
 松尾芭蕉は、1644年に伊賀上野で生まれました。松尾儀左エ衛門の次男で、兄1人、姉1人、妹3人の6人兄弟でした。生誕の地は2つの説があります。1つは、伊賀町柘植の拝野を生誕地とする説、もう1つは、上野市赤坂町を生誕地とする説です。父親は伊賀町にすんでいましたが、後に上野市へ移っており、どちらも松尾芭蕉に縁の地であることには間違いないようです。伊賀町教育委員会の説明では、「松尾芭蕉が生まれる前に引っ越していれば、上野市が生誕地、生まれた後であるならば、伊賀町が生誕地である」とのことです。

生誕地 伊賀町なの???生誕地 それとも上野市???

※上記の2枚の写真は、三重県総合教育センターの許可を得て、下記のページからお借りしました。

伊賀町には松尾氏縁の福地城跡、上野市には芭蕉が帰省した際に過ごした釣月軒がある。


永眠の地
義仲寺は、その名が示すとおり、木曽(源)義仲公の御墓所です。芭蕉は、大阪で亡くなる際に、「骸(から)は木曽塚に送るべし」と遺言しました。それにより、門人たちが遺骸を義仲寺に運び、墓を建てました。
義仲寺は、、その名が示すとおり、木曽(源)義仲公の御墓所です。
芭蕉は、大阪で亡くなる際に、「骸(から)は木曽塚に送るべし」と遺言しました。そして、門人たちが遺骸を義仲寺に運び、墓を建てました。



河合曾良

(〜宝永7年)
 信州上諏訪の人。本名、岩波庄右衛門正字<まさたか>。
 伊勢長嶋藩に仕えていたが、後に浪人となって江戸に上る。江戸蕉門の一人。「竹林の七賢人」ならぬ「深川の八貧」といって芭蕉庵に頻繁に出入りしていた弟子の一人。後に、『奥の細道』に随行。このとき名を宗悟<そうご>と変えたという。『鹿島詣』にも芭蕉に随行している。曾良は、地誌や神道に詳しい教養人でもあったという。
 宝永7年没。享年62歳。



お・ま・け

 芭蕉は、酒は嫌いではなかったようですが、特に好んで深酒するようなことはなかったようです。ただし、元禄4年4月23日の夜は、嵯峨の落柿舎にあって退屈していたところへ、去来・凡兆・千那らがやって来ました。おまけにこの日に限って各地の門人から書簡が多く寄せられたこともあって気分がよくなったのか、深酒になったようです。翌日の嵯峨日記が記録されていないけど、二日酔いになったのかな?!


 芭蕉についてのホームページを調べていて、私たちのページに載せて紹介したいと思った写真がたくさんありました。それで、それらのホームページを作っていらっしゃる方にお願いしましたが、著作権や所有権の関係で、お許しがいただけたのは、三重県総合教育センターのものと先生が撮って来てくださった写真だけでした。少し残念ですが、いただいたお返事で、それが社会のルールだということが、とってもよくわかりました。


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Last modified 2000/02/23