BARUさんちのバイクの歴史

1972 <免許の取得>
BARU高校1年生、待ちに待った16歳になり、夏休み試験場に行く。
市販されていた問題集で勉強したので学科は難なくクリアー。
実技試験、コースを一周もしないうちに「戻れ!」と言われどうしてなのか良く分からなかった、「運転」さえ出来れば良いのだと思っていたのだ。
2回程受けたが受かるはずもなく、やむを得ず自動車学校に通う。

当時、ほとんどの試験車、教習車は、HONDA CB350セニアだった。(右写真)

教習時間は実技10時間と学科が12時間位だった、学科試験はすでに合格していたので講義は受けないと抗議したがダメだった。費用は1万2千円位。
運転には有り余る程の自信があったので、実技教習は難なく終わった、が検定試験を残して夏休みも終わってしまった。
休みが明けての検定の日、お袋に「熱があるから休むと学校に電話してくれ」と言うと、嘘を言うのはイヤだと「バイクの試験で」と担任に言ってしまい「ダメだってさ」と一言。当たり前だ、バカ母め。
学校に行くと担任に呼ばれ、来月開校記念日で平日休みだからその日に行けと言われた。
運良く検定の曜日と一致し、念願の「自動二輪」の運転免許を手にした。
CB350セニア
HONDA CB350セニア
当時教習車の定番

HONDA CB450セニア

HONDA CB750 K1

リリック
YAMAHAリリック

YAMAHA XV750


YAMAHA SRX250


YAMAHA XJR1200

YAMAHA Zeal 250

1973

<バイクの購入 >
本当は免許を取った’72年に購入する計画だったが、免許証が手元に来たのが10月になってしまい、雪が降って乗れなくなるのも間近だったので延期した。
当時免許試験に合格してから交付まで2週間も待たされた、今は即日交付だ。

車種は特にこだわりは無かったが、オンロード車が欲しかった。
バイク屋を何軒かまわり物色して歩いたところ、2年落ち(’71)のHONDA CB450セニアを見つけた。車検2年付きで14万円で予算内で程度も極上だったので購入した。

ところが、クラスメートが、CB750K0というデカイのを買った、「ナナハン」だ。
ある日ツーリングに行ったとき競争し、あっさり負けた、悔しかった。
ちょっと乗らせてもらったら、絶句!BARUの450がプロペラ式のYS11ならヤツのナナハンはジェット機だ。
その日から寝ても覚めても「ナナハン」のことばかり考えていた、ナナハンノイローゼにかかってしまった。

450を買ってから二ヶ月しか経っていないのに・・・・ナナハンを買った。
CB750K1(’71)車検二年付きで26万円、450を買った時の値段で引き取ってくれ、12万円の追い金だったが8万円しか無くお袋に借りたが未だ返してはいない

1974

四輪車四輪車(以下クルマと言う)購入のため手放す。
心はクルマへ。しばらくバイクらしいバイクの無い時期がつづく。SUZUKI K50と言うビジネス車を2千円位で買って乗っていた。当時はヘルメットの着用義務が無かったので自転車代わりにして気軽に乗れた。

1977

バイクも併有したかったが金銭的に無理だった。
しかし「乗りたい」気持ちはいつでもあった。バイクにはクルマには無いたまらない機敏性動力性能を備えている

バイクも併有している友達がいて「時々借りて乗る」という時代がつづく。
右写真は友達に借りたバイク、Kawasaki Z750Fで支笏湖に行った時のもの
寒かったが久しぶりの大型バイクで興奮した。

1978

1984

エイリアン−kが通勤用に購入した、YAMAHA リリック 
2サイクル、50ccエンジンを搭載していた、バイクら・し・さ・は味わえた。
かごに鎮座しているのは息子、現在大学生。

会社の同僚達がバイクブーム、世の中もバイクブームの到来で、眠っていたBARUのバイク熱に火が灯り、ついに覚醒。
しかし、一人で乗るわけにもいかない、そこで家族全員でバイクを一緒に乗る計画を策略する。それに欠かすことの出来ない問題はエイリアン−kの「免許」だ。

この時期自動二輪免許は小型(125ccまで)、中型(400ccまで)と限定なしの3段階だった。BARUは当然750ccに乗りたいので、一緒に走るとなると125ccだとチト寂しいし高速道路に入れない、400ccまでは必要ないがせめて250ccに乗って貰いたい、そうなると中型免許が必要で、試験車は400ccだ。

クルマの免許は持っていて、毎日乗っていたので、クラッチ操作と言う物は理解しているし原付ながらバイクには乗り慣れているので、クラッチとチェンジ操作が手足逆になる事となんと言ってもバイクの重量か。
重量の為細かい取り回しに少々苦戦しつつも一ヶ月弱で、自動二輪中型限定免許の取得に成功した。

BARUは3年落ちのYAMAHAXV750(’81)、エイリアン−kは同じくYAMAHAのSRX250を新車で購入。BARUのバイク購入計画は成功した。

約10年間のブランクを置いての大型バイクの購入で嬉しかった。写真では少々見にくいが息子を自分の前に乗せて走った。クルマ用のシートベルトを改造した物で息子(4歳)と合体し落下を防止した、寝てしまう事が多かった。

1990頃 メーカーの「自主規制」と称する「750cc以上車の国内非販売」。実は運輸省(現・国土交通省)や警察庁のお役人(以下爺さん(達)(ら)(ども)などと言う)からのれっきとした規制だった、最高出力規制もそうだ。実際にバイクにも乗った事の無いような爺さんらが勝手に「バイクは危険」と決めつけ国内の4っのメーカーに圧力をかけているのだ。しかし外車や、国内4メーカーが輸出用に規制なく生産されたものが逆輸入され多く販売されることによって意味のない「自主規制」となってしまい、「排気量が750まで」というのが解禁となった。
しかし出力規制はそのままで、国内販売される物と逆輸入車では同型車でも、かたや74kW(約100馬力)、かたや110kW(約150馬力以上)とおかしな状況が続いている。それは「輸入車」とひとくくりに扱うため、外車に規制する訳にもゆかず、相変わらず外国様には「ノーと言えない」勇気のない爺さん達なのだ(バイク乗りには好都合^_^)

最近高速道路の最高速度が80q/hから100q/hに解禁されたが、これも爺さんどもの仕業で長い間規制されていた物だ、仮に(実走行は怖くて出来ない^^)法規通りにクルマと20q/h差で走ったとすれば、クルマにしてみれば邪魔、バイクにしてみればビュンビュンクルマに追い越されて危険極わりない。逆に動力性能や機敏性の優れているバイクが120Km/hでもいい位だとBARUは思う。

そういうことをバイクに乗ったことも無い人間が机上で決めてしまう恐ろしい国「日本」なのだ。いまだ2人乗りの規制が続いたままだが早く解禁して欲しい、バイクは決して危険な乗り物ではない、すべて乗り手の意識の問題なのだ、バイクやバイク乗り(ライダー)を特別視しないで欲しい。 

1994 やはり大きい事はイイ事だ、BARUの免許はどんなにデカイのでも乗れる、例え5千ccでも一万ccでもOKだ(^o^)
だが乗るのに手頃なのは1000ccクラス、そのクラスへのランクアップがしたくなった。一時期流行っていたレーサーレプリカのような前傾スタイルはどうも苦手だ。やはりバイクは昔風のシンプルなのが好きだ、次に選んだのはYAMAHA XJR1200だ。1994年に新発売され「これだ」と一目惚れした。
久しぶりの4気筒エンジン、スムーズさと動力性能は申し分ない、走っていてポジションチェンジの時は思った所に「すぐに」行ける、追い越しも楽ちんで多少対向車が接近していても考える必要ナシ答えはGOだ。世の中にはまだまだ凄いバイクもあるが、BARUの腕、体力、体格、歳?からすると必要十二分のバイクだ。非常に満足していて、他に欲しいと思うバイクは現在のところ無い。
1996 エイリアン−kはZeal(ジール)に乗り換えた。
お下がりでSRX250は、16歳になり免許を取った息子に受け継がれた。
ココだけの話、当時高校生だった息子の免許の取得は学校で禁止されていた。
しかしBARUの「家族でバイクを楽しむ」と言うポリシーには断じて許せぬ規制である。

法律で、16歳になった者は、何人でも自動二輪車の免許の取得は許されている・・・のだから堂々とバレない様に取らせた。
と、そこまでは良いのだが、今度は自動車学校の「自主規制」と言う名目の、爺さん達の圧力だ。自動車学校に「はじめて二輪免許を取得する者は原付もしくは自動二輪の小型限定(125ccまで)から取得させろ」という物だ。(そのような法律は当然無い)
冗談じゃないぜ!BARUさんちにも家庭の事情っつうのが(お下がりバイクは250cc)あるのだ。小型限定ではお下がりどころか新しいバイクを購入しなければならん。北海道内全ての自動車学校にはすでに、爺さん達の圧力(息)がかかっていて中型免許をいきなり取得できるところは無かった。

と言うか、多くの自動車学校の(名ばかりの)理事長、校長などと言った要職(?)に就くお方々は「元爺さん達」なのだ、いわいる「天下り」だ。だから逆らうはずもない。学校の経営としても、小型→中型と一人の生徒で二度美味しいのだしかし!BARUは、そのような爺さん達の「小汚い策略」に踊らされなく、毅然と立ち向かう?ある自動車学校を本州に見つけ、はるばる北海道から合宿教習に行かせ見事?自動二輪中型限定(400ccまで)免許を「いきなり」取得させる事に成功した。 ざまみろ、爺さん達(^_^)v