佐久間さん(横須賀米海軍基地艦船修理廠に43年間、修理工として勤務。肺ガン、小細胞ガン)

被害者の声
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佐久間美智子さん

 私の夫は、横須賀米海軍基地艦船修理廠で43年間、定年まで修理工として働いてまいりました。艦船修理と申しますと、破壊され壊れた艦船部分の取り壊し・修理・取り付け・その他色々な分野に渡って作業していたそうです。中でも朝鮮戦争の頃には、戦禍に追われ傷ついた兵工を乗せ、入港した船の修理は大変だったそうです。

 100時間を超す残業におわれ解体・修理と一刻を争う時間帯の中、アスベストを含んだ断熱材の粉塵の中を黙々と自分たちの健康を考える事なく、少しでも早くと仕事をしていたのです。現場では冬は寒さを減らす為にアスベスト布を昼休みに椅子の上に敷いたり、アスベスト布で一時的に仮眠をとってい人もいたそうです。マスクも普通の手ぬぐいで防具も普通のもので、これが日常繰り返されていたという事なのです。作業服を家に持ち帰り洗濯した事も度々ありました。思い出すとゾッとします。

 夫は健康に恵まれていましたが、「もしかすると定年まで生きられないかも」と言っていた事がありました。在職中にじん肺管理2と診断されましたが大きな発病もなく定年を迎え、職場の皆さんから盛大なお見送りを頂き、「これから2人で旅行や畑などで楽しい第二の人生を送っていこう。」と希望に燃えて職場を後にしました。あの時が本当の幸せでした。

 退職後、咳やタンが出るようになり診療所で続発性気管支炎で治療を受け労災の認定を受けました。その後も2週間に1回通院していましたが、大きく変わった事もなく時には好きなカメラをもって旅行にも行っていました。1996(平成8)年正月過ぎから、日毎に疲れがでて体調が悪くなって参りました。診療所のレントゲン写真と紹介状をもって、病院へ行きました。医師は一目見て「肺ガンです。小細胞ガン。これは手術ができないので、抗ガン剤で治療しましょう。」と即日入院となりました。夫は平静を保ち医師の顔を見て、「ああ、そうですか。」とはっきり申しました。「あと、2年位(の命です)」と医師は追い打ちをかけるようにぐさりと伝えました。

 抗ガン剤治療が始まり、幸い吐き気もなく食欲もありませんでした。しかし頭髪はすっかり抜け落ちて、体もやせて発熱や便秘も度々ありました。しかし転移はなく、この頃の気力は以前と変わりませんでした。5月頃抗ガン剤投与も一段落して、帰宅する事ができました。9月末体調が良い時を選んでかねてから希望していた、乗鞍山の紅葉を見る旅行に息子達と1泊2日で楽しんできました。天候不順の小雨の中夫はカメラを手にたくさん撮影していました。最高に楽しい、忘れられない、これが最後の旅でした。「お父さん、来年はもっとキレイかもしれないね。また来ようね。」という私に黙って頷いていました。

 抗ガン剤の投与、白血球が減少すると上げる注射の投与、の繰り返しが12月まで続きました。体力は眼に見えて衰えましたが、気力は凄くありました。正月を越し床に着く日が多くなり、咳や痰は日に日に多くなって参りました。トイレもベッドの脇におく様になり、息も肩で行う様になり2月酸素が始まって亡くなるまで外す事は出来ませんでした。「転移が何カ所かあり、あと2ヶ月位。」と先生から伝えられましたが、「俺は大丈夫だから」と私達を逆に励ましてくれました。食事も細くなって好物を少し素早く酸素マスクを外しスプーンで口に入れ素早くマスクをかけるのです。

 病棟の患者さんは肺の病気の人が多く、末期の苦しみの声をよく耳にしましたので、先生に「治らないのなら苦しませないで下さい。」お願いしてありました。便もでなくなり毎晩食後の歯磨きをし、お湯で体を拭くと「気持ちいいよ。」と言います。「お父さん、明日早く来るから」と言う私を、寂しそうに見つめるので、後ろ髪を引かれて帰宅する日が続きました。4月に個室に移りました。殆ど眠っている事が多く、会話などできない状態でした。5月中旬洗濯物を家に持ち帰り部屋に戻ると何か変なのです。着せていたパジャマが血だらけでソファの上に置かれ、血を拭った手拭きがゴミ箱に入っていました。点滴が外れたのでした。血糊がついたパジャマを洗面台で洗いましたが、何度洗っても何度洗っても手が真っ赤になりました。「ひどいね、ひどいね。」と泣きながら洗っていた事を忘れる事ができません。

 亡くなる2日前に「肩がこって痛い。」と私がお見舞いの人に話した所、「今日は少し気分がいいから。」とベッドを少し起こしていた夫が、私の肩を力いっぱい揉んでくれたのです。本当に信じられない位の力でした。そして一言「疲れるなよ。」と言ってくれました。「また伊豆の温泉に行こうね。」と私が耳元でささやいたのが聞こえたのでしょう。「うん。」とうなずいたのが最後の一言でした。あとはいびきをかき続け、桜が咲き緑の葉に変わった1997(平成9)年4月25日亡くなりました。医師に「解剖しますか?」と尋ねられ、お願いした結果「アスベストによる肺癌」でした。

アスベストがなかったら、今頃は2人で楽しい旅行もできたでしょう。息子達とのいろいろ積もる話もしたでしょう。それはもう、遠い空のかなたに消えてしまいました。

 来年7回忌になります。こんな悲しい思いは、もうたくさんです。もしも、あなたの愛するご主人、息子さんがアスベストによる病気になった時の事を考えて下さい。他人事ではないのです。アスベストは世界の人たちを死亡させるものです。一刻も早く禁止させるべきです。よろしくお願い致します。
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