藤崎貢三さん(造船所の機械修理の仕事、悪性腹膜中皮腫)

被害者の声
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藤崎フミさん

 横須賀から参りました。うちの夫藤崎貢三は、若い時は遠洋漁業で海に出ており、船を降りてから中高年で造船所の機械の修理にはいりました。皆さん若い方が言われているように3Kという汚い仕事です。油で、油で、泥まみれです。作業着を洗うだけで半日かかります。ですが造船所で働いていた頃には、こういう石綿でおきる病気があるということは全然知りませんでした。1995(平成7)年に検査で入院し胆石といわれ、その後痛みがあったら手術しましょうと言われていました。

1999年の秋からおなかが張って変だと言っていたのですが、翌2000(平成12)年1月に急激に痛みが来て入院しました。その時は「既に胆嚢が化膿していて、敗血症で後1時間遅かったら死んでいた。」と言われました。手術するにも年齢が77才でしたから、体力的に大変だということで、抗生物質の点滴をしていました。1ヶ月も入院してその間1週間しか食事がでないんですよね。

何のために食事が出ないのかその時はよく分かりませんでした。1ヶ月後に手術となり、6時間20分かかりました。手術で取って下さったものを見たら、細胞というんですか、袋というんですか、それが今にもとろけそうなんですね。「これは検査に出さなきゃダメだ。」ということで、検査の結果異常細胞があると言われました。アスベストによる悪性腹膜中皮腫も疑わしいとされましたが、最終的な詳しい診断は生きている間にははっきりしない所がありました。

 細胞がおかしかったので抗ガン剤を入れました。入れてすぐから吐き始めたので、その後も抗ガン剤の影響だと思っていました。9の字に曲げたままで汚物入れも間に合わないので、大きなバケツですよ、バケツを抱えて吐いていましたよ。背中をなでるも叩くももう夢中でしたね。それからどんどん具合がひどくなりまして、苦しんで個室に入れていただいた。この頃排便が無くなってきたのに気づきました。口から汚水がでてきて、そこにオムツをあてていました。

口から汚水が出るって分かりますか?下へ出るものが口から流れ出るんですよ。全身の細胞が冒されていたんですね。苦しんで苦しんで口もきけない。口の中は荒れて真っ白。もう意思表示ができないから嫌なときは指でバツをするんですよ。「お父さん、頑張ってね。」と言う他ないですよ、処置の方法もないんですから。ただそばにいてさすってやれば本人が安心するから、少しはね。看護婦さんも「この患者さんは凶暴性があるのかな。」って言われるくらいに暴れたんですよ、私のいないところで。一時はベッドにゆわかれていました。サラシかなんかで。

もう何も言えませんよ、そうなったら。そのうちに流れ出るのが取りきれないので、管が口と鼻に入りました。口はきけない、汚水は口の管から出る。痛みも何も訴えることができません。ただ見てる方が・・・、本当に皆さんに見せたいですよ、あの姿を。人間なら下に出るのが当たり前でしょ。それが口から鼻から出てくるんですよ。そういう状態を想像してみて下さい。想像もつかないと思いますよ。腹膜中皮腫という病気は、腸が詰まる腸閉塞という症状が出て、口から嘔吐がおきるということで、このように苦しむんだそうです。

 最終的に全身にむくみが来て、尿が排泄できなくなって、パンパンになりましたよ。危篤状態に3月30日になりまして、「透析はできるかできないか、たぶんできない。」と言われたんですが「できるだけのことをやって下さい。」って医師に頼みました。それでコンパクトの透析機械を入れて下さって、それで多少むくみがとれて、「もう1回やりましょう。」って言われましたけれど、もうここまできてダメになるなら体を軽くして元の体にしていかせたいと思いましたよね。

あの体見てられませんもの。透析で体は軽くなりましたけど、相変わらず口と鼻から汚水がでてます。点滴、栄養剤、痛み止めやってますから。先生が回診に来られても、結局その下に下がっている袋を見て先生同士の話でよくわかりませんでした。もう少しわかりやすく説明してほしかったと思います。2000(平成12)年4月18日午前8時40分、永い眠りに入りました。

「病理解剖をしなさい。」と造船所の先輩から聞いていましたので、「病理解剖をお願いします。」と言った所、お医者さんの方からも、「こちらからもお願いしたいところでした。」という事で解剖して下さいました。霊安室に待ってましたら、解剖の先生が深々と頭を下げて、「腹膜の中に内臓がひとかたまりになっていました。胸部にも石綿の影響がありました。」と知らせを受けました。

 入院してから100日の間1回も家に帰れずでした。ガンであったら悪いところを取ったら一日くらい帰れるだろう、と最初は考えていました。医師にも「1回くらい家に帰れますか?今までの様な看護を家でしてくださる看護婦さんは、いますか?」って聞いたら、「いないことはないけれど、今家に移して発作が起きたら治療ができない。」と言われ、これだけの治療と看病は自宅ではできないと思い、目をつぶるほかないと思いました。

1月8日に緊急入院して、4月18日ですから100日。その100日間は無我夢中、治るんではないかと期待し続けた病院通いで、病人の1日1日悪くなっていく姿を眺めながら過ごしたという状態です。本当に何というか、解剖の結果が出て初めて、ああやっぱり石綿で全身の細胞がやられたんだなということが、痛切に分かりました。もうこうなったら1時間も早く家に連れて帰らなきゃと、それしか考えませんでした。弟が、「姉ちゃん入院費はどうする?」って言うから、「後から催促が来るだろうから、お父さんを早く家に連れて行くよ。」って、家に連れて帰ってきたような状態です。

解剖するまで自分にとっては、はっきりした病名が分からず、治るんではないかと期待し、点滴、痛み止め、酸素、それだけでした。最終的にうちの夫の病名は悪性腹膜中皮腫になりましたが、これからもこういう病気が出る訳です。出ないとは言えません、石綿使っていますから日本は。絶対にこの石綿の輸入を阻止していただきたいと思います。

若い人にこの苦しみを2度と味わわせたくないです。私だけでたくさんです。そう言っても5年10年後からまだまだ後からの人も泣くでしょう。もう充分です。石綿を恨みます。事業所はあちこちと、第3請負くらいのところですから、小さな企業で一番汚い仕事をやって、海上保安庁、防衛庁の艦船を直してるんですよ。それでもやっぱり仕事場が仕事場ですと、こういう病気になるんです。皆さんはきれいなお仕事をしてらしゃるからね。机の上のお仕事で、現場を見ていないから分からないと思います。

現場を見て下さい。職場、また病院の苦しんでいる姿、現実にその姿を見ていただきたいと思います。それと石綿を完全に輸入禁止にして欲しいです。それだけよろしくお願いします。
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