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第三回
第四回
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第六回
第七回
「帰りたい家」
番外・副作用
natsuさんの手記



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第三回 入院生活
<1996年1月>
<1996年2月>
<何月か忘れた>リハビリ等
<入院生活の暇つぶし>
<同部屋の人達>
<先生・看護婦さん>
<お見舞い>
<1996年1月>
このころは検査漬けで忙しく、知人にも落ち着いてから、ということで入院の事は知らせないでいた。
アホみたいに楽観的な考え方の自分も、だんだんとネガティブになるのがよくわかったなぁ。
1週間ほどで座る事もできなくなった。
手も脚も首も上がらず、体温計を脇にはさむことも自分ではできなかった。
体は清潔にしなければならないので、看護婦さんが全身拭いてくれていた。
当然全裸。拭かない場所も無い。
でも恥ずかしいと感じる事はほとんど無かった。言うてられんしね。
あえて言えば、男なので触られると反応してまう場所もあるわけで。
おっと、今ひいた人、手あげなさい。冗談です。でもあくまで事実を書いているだけなので。
そこ拭く時は看護婦さんも俺も黙り込んでしまい、その妙な沈黙がなんとも。
でもおかげさまなのか?今でも裸を見せる事に恥じらいの意味での抵抗は無い。
皮膚がのびきってドロドロなん見られるのが嫌という気持ちはあるけれど、「恥ずかしい」ではない。
トイレはしびんと寝たままするおまるのようなもの。
で、腹筋がだめだめだったのでオールかんちょう。いやんな感じ。
爪きり、歯磨き、着替え、etc.全て看護婦さんにしてもらってた。
まさに赤ん坊以下の生活。プライドなんてかけらもなかったなぁ。
そして胃カメラをしたころから喉も弱りはじめ、
食べ物はおろか、たんがつまって息が苦しく(その都度看護婦さんが吸引)、
寝ると唾すら飲み込めないため、そのせいで窒息しそうになり、寝る事すらできない日もあった。
このころは泣き叫びたくなる程しんどかった。
さすがにこの時はほんまに"死ぬ"と思ったな。
安楽死という選択ができるならば、選んでたかなぁ?
おぉ、こわっ、くらっ。
後に聞いたのだが、このころのCPKは測定不能。13000超えていたのかな?
それくらい上がってたらしい。
うーむ、、、当時ちゃんと教えて欲しかった気も。やはり精神的なものを考慮してなのかな?
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<1996年2月>
治療開始。
まずはプレドニンの服用を開始。
一般と同じく、60mgの服用から始めたのだが、症状と体格とあってか、効果なし。
先生方も、どないなるかわからんかったらしい。
そこで100mg(欧米人はこんな感じらしい)に増量し、
パルス療法といって、ステロイドを多量に(一回1グラム、数日間(一般的に3日))投与し、
免疫抑制剤のMTXを週50mg投与したところでようやく効果が出てきたらしい。
それでも測定不能までCPKが上がっていたため、なかなか落ち着きはしなかったけれども。
しかし今思えばすごい量や。
入院してからTVゲームばかりやっていたせいか、指は動かせるようになってきた。
おまけに首もすわるようになった。(とは言っても自分の意志で動かせない)
それとともにこのころから食事をはじめる。
体重が冗談で言ったつもりがほんまに一月で30kg落ちたので。
とはいうものの、朝はプリン、ゼリー、ヨーグルト、栄養ドリンク、
昼、夜はそれにうどんが加わっただけ、というメニュー。
はっきりいって飽きたが、それでもうどんだけは美味しくて仕方がなかった。
微妙に変わるうどんのバリエーションが唯一の楽しみで。
まだまだ飲み込めないので、むせて何度も吐きながら必死で食っていたのだが。
食べ易さは 栄養ドリンク>うどん>ヨーグルト>ゼリー>プリン といった感じ。
プリンはほとんど食べられなかったし。
さすがに退院してからも2年くらいはプリン、ゼリー、ヨーグルトは食べる気にはなれんかった。
そこまでして食べてたのは、胸切って心臓に管を通すのが嫌やったから。
こんな食事でもプレドニンの副作用のせいか、めきめきと体重は増えてきた。
少しではあるけど冗談も言えるようになってきた。
顔、口や喉も弱って、言葉が「な」行になったり、あと、表情もつけれなかった。
無表情で「ないおんはかぬんねすか?(体温はかるんですか?)」
とか言ってたから看護婦さんにも物真似されたりしたなぁ。
最初ちょっとムカッときたものの、そら変やわ。むしろ笑いにしてくれる方が救われた。
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<何月か忘れた>
どんな形であれ食事も取れるようになり、リハビリが始まる。
最初はリハビリの先生が来て動かしてくれる、マッサージみたいなものやった。
その効果もあってか、しばらくして座れるようになった(自力では勿論無理)俺やけど、
おかげで、このころからよく腰の筋?神経?を痛めるようになってしまう。
どうやら腹筋と背筋のバランスが悪い事や、筋力低下により背骨がまっすぐに伸びている(背骨は曲がっているのが普通)らしい。
息が止まって、涙がボロボロ出るほどの激痛を伴い、その度にレントゲンを撮っていた。
リハビリも進み、数ヶ月ぶりに立つことが出来るようになった悦びは、今でも忘れていない。
何よりも素晴らしいことの一つに気付かせてもらったような思いです。
それからしばらくして、車椅子で運ばれいよいよリハビリ室へ。
自力で漕ぐなんてとてもとても。今でも無理じゃないかな?
最初は椅子に座ったまま脚をあげるってのをやってた。
慣れてくればおもりを足に巻いて負荷を増やしつつ。
次に椅子から立ち上がる練習。
これがきつく、最初はかなり高い椅子から始めた。
病室でリハビリしていた時もやっていたが、ベッドを一番高くしてからで、
座ってる所から立つというよりは、ストンと降り立つ感じだったので。
次は二本の鉄棒のてすりの間を歩く訓練。
この歩く訓練、目の前が鏡張りやったのだが、筋肉だけ落ちたため変な痩せ方(餓鬼みたいな)している自分を見てちょっと驚き。
あと伸び切った髪とややムーンフェイスな自分の顔にも。
鏡なんて見る事なかったからなぁ。
これが初期のメニュー。
少し歩けるようになった俺は、嬉しかったのか、図にのってたのか、
お迎えの看護婦さんを待つために座っているのがしんどく、
車椅子を歩行器がわりに歩いて病室に戻るという無茶を犯してしまう。
距離は2・300メートルだったが、フルマラソンを走ったかのごとき辛さに、改めてくやしいと思ったりしてた。
そういえば、このころアルプスの少女ハイジが再放送されていた。
なんてタイミングええんやろ。
もちろん、クララ頑張れ!俺も頑張る、、、なんて思うわけはなかった。
先に立ちたいとか、不思議なもんやなぁ、とは思ったけど。
そんな頃からは自分でも目標を決めて小さな事をやっていた。
例えば寝ている状態から座る練習。
ベッドを最大まで起こしてからでも背もたれ無しで座る状態まで移行できなかったが、
横に向いて腹筋だけでなく腕の力も使ってなど工夫しつつ、少しずつベッドの角度を小さくしていった。
怖いながらも歩いてリハビリ室へ行き来するのも続けた。
途中の渡り廊下から見える景色が印象的だった。
時期も梅雨にさしかかっていた頃であり、雨の記憶ばかりあるかな。
リハビリも順調に進むと、看護婦さんつきそいでお風呂に入れるようになった。
衣類着脱は、看護婦さんの肩につかまった状態で看護婦さんがしてくれる。
しかし風呂の後はいつも疲れ果てて寝てた記憶しかないような。
リハビリ室での練習も、首を自力で持ち上げる事が出来るようにも含め首上げ腹筋、
自転車こぎ、3段やったかな?階段の上り下りなども始めた。
感染症予防のためマスクをしてたけど、これがまた息苦しい。
5月中旬、半年以上のばしっぱなしの髪を刈る。う〜ん、さぱっり。
この頃、初めて車椅子を歩行器代わりにすることもなく、病院の廊下の真ん中を歩いた。
でも太腿の筋肉も弱く、膝が少しでもカクッとなればこけてしまう勢いやったし、
結構怖かったんやなぁ、これが。偶然見た看護婦さんはもっと怖かったらしいが。
何はともあれ凄く喜んでもらえたことが印象的。
他には色気出してトイレに行くようにしたり。
行った所で、用を足した後立ち上がれずに看護婦さん呼んでばかりやったんやけど。
どんどんできる事が増えてくる事がむちゃくちゃ嬉しかった。
はっきりいって、辛かった事なんて頭のどこにもなくなっていた。
「再発」という危険から、「頑張りすぎるな」「あせって無理するな」と言われ続けたけど、
頑張る事にここまで悦びを感じた事はなく、ついつい頑張っていた。
ただ、その中に「あせり」は全くなかったように思う。
それほど、気持ち、気力面では充実していた。
そして顔の筋肉も戻ったのか、自然に笑えるようにもなっていた。
それを看護婦さんや同部屋の人が喜んでくれたりもした。
留年が決まった時は少しへこんだものの、この後もリハビリと検査を繰り返し、数回様子見で帰宅する。
この時、当時飼っていた猫と再会したんやけど、一時間ぐらい俺にむかってすりよったり、鳴いたりしてた。
普段愛想の無い猫やったのに、心配してくれてたのかな?と少し感動。
この頃は病院内をできる範囲で徘徊していた。
ただでさえ広く複雑で、見舞いに来てくれたのに部屋まで辿り着けなかった友人が居るらしいのに、
ずっと寝たまま運ばれてきた俺には未知の世界だったので。
目標は約1kmある、正面玄関まで行く事やったけど、さすがにそんな無茶は出来ず。
そしてその後しばらくして、退院に至る。
退院時はなんとか800mは歩けるほどで、座ってられる時間はそんなに長くはなく、
洋式トイレの便座から立ち上がるのがまだまだいっぱいいっぱい。
プレドニンの量は忘れた。申し訳ない。
そんなこんなで、7月、世間が終業式の日、無事退院したのでした。
青い空に希望を見ながら、、、って、あいにくこの日は雨やし。
ともかく、うれしくて仕方がなかったのは確か。
知り合いが歩いているのを見かけたり、マスク付けて、見た目も変わり果てていたため気付かれなかったり、
タクシーが遠回りする事になって料金まけてくれたり。
こんな些細な事まで鮮明に覚えているので。
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<入院生活の暇つぶし>
入院中、何をして過ごしていたか、という話です。
体が動かなかったころ。とりあえずテレビは借りたが、
昼間、同じ内容のワイドショーばかり見ているのは嫌やった。
飯が食えないせいか、料理番組はよう見てた。元気になったらつくったる!と思って。
しばらくして、テレビがコインを入れる方式ではなかったのをいいことに、テレビゲームを持ち込んだ。
本も持ってきたけど、手が本を持てるような状態でなく、断念。
ゲームはおなかの上にパッドを置いて、ゆっくり遊べるもので遊んでた。
手が痺れてきてきつかったが、することないし、無理矢理。
何より良い意味での現実逃避になってたんじゃなかろうか。
現実逃避する事は必ずしも悪い事ではないと思う。
辛い事があったら、時には逃げたり、一歩退くのはあり。ただ、最終的に前へ進めたらいいし。
勿論逃げっぱなしは駄目やと思うが。いつか向き合わなきゃならない事やし。
話逸れたけど、これが結果的に指の筋肉がおちるスピードを落としてくれたわけですな。
結局ゲームは入院中ずっとしてた。勉強?あいたたたた
顔の横20cmの位置にテレビがあったのに、視力が落ちなかったのが不思議。
ちなみに視力は今でも1,5。
手が動くようになってからは本も少し読んだ。
歩けるようになってからまずしたことが、夢の売店巡り。
売店がでかい!ちょっとしたスーパーマーケットのよう。
ここで食べ物をリハビリ行った帰りに買って、部屋でこっそり食べていた。
リハビリ後、午前10時過ぎくらいやけど、運動するせいか物凄く腹減ってたんやなぁ。
味の濃いものを食べれる幸せ。
もちろん、食べると副作用で顔がふっくらするのですぐばれたけど。
次にいろんなとこから景色を眺めること。
入院中、窓際のベッドに一度もいけなかったので。
大文字焼きが見える部屋やったんやけどなぁ。
雪がふった時はとてもきれいやった。
雪の時期は寝たきりやったのでちらっとやけど。
こんなとこかな。
学生やのに勉強はほとんどしてなかった。
現実をあまり見たくなかった、ってのは言い訳っぽいかな?
とにかくゲームをして現実逃避をするほうが、精神的にとても楽やったわけで。
随分救われたな〜って思う。
そのせいで駄目人間まっしぐらと言われればその通りなんですが。
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<同部屋の人達>
ここでは特に印象の強かった同居人について書こうと思います。
大学病院にはいって最初の同居人3人は実はあまり印象が、、、
そこに居た期間が短いのと、余裕も何も無かった時期なので。
とにかく、消灯時間10時きっかりに寝はる、真面目な人々で、
俺は深夜番組を見れなかった。
部屋移動、大腸ファイバー準備と感染症予防のための個室を経て、
再び4人部屋へ戻ってきた中に、しょっちゅう看護婦さんに無理言っては怒る人がいた。
しんどくてたまらん俺にさらにストレスをプレゼントしてくれた、素敵なおじさん。
さらに笑っていいともを見ていると、「こっちのがおもろいでぇ」と、
午後はOO思いッきりTVにかえてくれたりもした。
俺は手が動かせず、チャンネルを変えられないので仕方なしに見ていたし。
親切心なんやろうけど、ほっといてほしかったなぁというのが正直な所。
一番心身ともにしんどかったし、イライラしてたころやったし。
次の人はほとんど話をしていないけど、無理して食べたスパ王をのどにつまらせ、助けを呼ぶ事もできず、
「これで死んだら間抜けやな、新聞にもスパゲティで死亡とか。なさけな。」
などと考えながら意識が薄れていく俺を発見してくれた、命の恩人。
でも良い人かと言われると、うーむ。
なぜか退院する時にパンストをくれた。謎。
次はボディーガード兼運転手がいるほどの義足付けたての社長さんと、
(なのに俺に対しても敬語で喋るきっちりした人)
足を事故で怪我していた警察官?ガードマン?のおじさんの二人。二人とも糖尿。
お二人はとても仲がよく、明るかった。
俺がリハビリをはじめたころ、わざわざ車椅子で様子を見に来てくれた。
二人はよく、
「寝たきりやったのに、ようがんばったな。君を見てるとこっちまで励まされるし嬉しくなるわ。」
などと、看護婦さんにも自分の事のようにうれしそうに色々話していた。
照れくさいが、むしろこの言葉に俺も随分励まされたもの。
ある意味最高の患者付き合いやったと思っている。
怪我したほうのおじさんは趣味も若くて、楽しい人やったし。
本当にお世話になりました。
次は同部屋になった人では一番若い、30くらいのお兄さん(入院中突然金髪にしはった)と
お店をやってるギャンブル好きのおじいさん。
二人とも面白い人で、この二人と怪我をしたおじさんの4人の時は、みんな深夜番組を見てた。
悪い言い方やけど一番不真面目な4人。
看護婦さんからも特に注意されへんかったし、一番楽しかった時かな。
この時、とある事件が、、、
真夜中に何もしてないのに突然テレビがついたりチャンネルが変わったりするようになった。
「う、うわっ!」とビビりつつ過ごしていたけど、
真相は隣のおじいさんとテレビの種類が同じなだけやった。
むこうも時々勝手にチャンネル変わったり訳がわからんかったらしい。
他にも半年の生活の間にたくさんの人と出会ったわけですが、このへんで。
内科だったせいもあって2.3人を除いてみんなおじいさん。
ちなみにわがままな人が多かったのと、俺が小僧ということで、
最後まで窓際へ行けずじまい。無念。
あと、同部屋ではなかったけど、筋炎の人には二人出会う。
お互いに頻繁に部屋を出る事ができなかったので、あまり話す事ができず、人伝いに調子を聞いたりしていた。
俺は若いから回復したけど、二人は年齢と、もう何度も再発しているという事もあって、回復は難しいらしかった。
でも、少しだけ話する中で、随分と力づけてもらって、とても感謝している。
最後に同部屋だった方々へ。
当時、疲れていたり、精神的にやや不安定だったので愛想が悪かったです。ごめんなさい。
けど出会えて良かったと思っています。大変お世話になりました。
▲
<先生・看護婦さん>
先生は一番上に教授、次に外来も担当してはる先生、次に研修医という形。
入院している間に3度研修医の交代があった。
最初は俺の地元にある病院の息子さん。
次が女の先生。最後は男の先生。
5人ともに、当然とてもお世話になった。
たま〜に研修医仲間の人に採決や点滴の練習台にはされたけど。
年配の患者さんは、下手だと針を刺させてくれなく、
そこで若くて頼みやすい自分のところへ来てたというわけで。
よく隣のおじいさんに怒られていて、見ているこっちもなんだか可哀想で。
いや、自分もやられてみて、やっぱり下手やったけれども。
まあ、ええ思い出です。
聞いた話によれば、当時研修医の方々は各地でしっかり活躍なさってるそうで。
教授はやはり、週一回の回診で、大勢の研修医をズラッとひきつれてやってくるのが印象的。
こっちも緊張したもんや。
もう一人の先生は今でも外来で診てもらっている。
さわやかな感じのええ人。結婚もしはったし。
年齢はちょっと解らないけど、若い感じ。
もう随分長い間お世話になっているけど、そんなに雰囲気変わらないかなぁ。
やはり一番頼りにしています。この主治医に付いて転院したし。(病院と家の距離同じくらいというのもあったし)
これからもお世話になります。
看護婦さんへは言葉で表せないほど感謝している。
赤子よりも何もできない自分を色々と助けてもらった。
当時しんどくて、厳しくされてむかついた事もあったけど、
彼女たちのおかげで今の自分がいるわけで。
退院時もはっきり言って寂しかった。
学校を卒業する事などよりもはるかに。
退院してから病棟を何度か訪れたので、再び会えた人もいるけど、
(この人達は元気な自分を見てとてもよろこんでくれた。)
科や病院の移動等で退院後一度もあってない人にも、
今の自分の話や、当時のお礼などなど会って話したいことはたくさんある。
しかし今病棟を訪れても、当時いた人は婦長さん含めて少ししかいないわけで...
当時の主任さんが外来担当にならはったものの、
京大病院へ通わなくなった今、お会いする事はまず無くなってしまった。
寂しいなぁ。
リハビリの先生、あの寝たきりやった自分をよくぞここまでって感じで。
接する時間は少なかったけど、彼と、そこへ実習に一日だけきた、八木アナが好きな学生さんの影響で、
当時理学療法士を目指そうかな、という気になったほど。
(現実は色々難しいですが)
当然、感謝してます。
感謝しまくりな気がするけど、感謝できるという事は病気になってから良かったと思える事の一つ。
人には勿論、色々なものに感謝できるようになった。
時々この気持ちを忘れてしまいそうになる事もあるが、これからもこういう気持ちは大事にしていきたい。
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<お見舞い>
やっぱり嬉しいもんです。はい。
知り合いに入院している人がいる人は是非行ってあげて欲しいです。
誰が来ても嬉しくて嬉しくて。その日は異様にテンションあがってた。
表情がつけれなくて無表情やったかも知れないけど、心の中はパラダイス。白い鳩も飛ぶっちゅうねん。
いや、言いすぎた。申し訳ない。
ただ、言葉が「な」行になってた頃や、調子悪かった日に来てくれた人には不愛想やった。
あと、花を持ってきてくれたけど、俺の抵抗力が弱いせいで飾れなかったのと、
そのせいで見舞いに来る人にマスク付けてもらわなければならなかったこと。
これらは真面目に、申し訳ないです。
大学病院は異様にでかいので(門から俺がいた所まで1kmほど)、
せっかく来てくれたのにたどり着けなかった人も数名、、、
悪い事したなぁ。
食べ物を持ってきてくれた分は飲み込む事ができない時期でも、気合いで最低一口は食べました。
人の想いがこもった物やし。正直、食べ物はいやぁん。って思ったけど。
ただ入院時期が長かったせいか、じょじょに誰もこなくなり。
寂しかったなぁ。仕方ないけど。
あと、退院前日に退院すると知らんと来てくれた人もいた。
訊き辛そうに「二十歳まで生きられへんってほんま?」
どこからそんな噂が。もうとっくに過ぎてるけど元気に生きてます。
ただ当時は医者や親が隠してるだけかも、なんて事もほんの少し考えたけども。
そりゃあ薬で内臓が老化してるらしいし、人並に長生きはできそうにないと思うけど、
事故とか災害とかにあうかも、と考えれば誰にでも当てはまることやし、生きてる限り、楽しく、やね。
病気にかかった人は、その事は大変なことやけど、
生きる、ということの貴重さ、素晴らしさを再認識させてもらったと思えば、
少しは良かったと思える、、、かな?
今は辛い人でもいつかきっとそう思えるようになる瞬間もあるはず。
ここを作った最初は少し無理あるかな、と思ったけど、色々な人と話をしたりで、今は確信しています。
少なくとも自分を投げたり捨てたりだけはしないで欲しいです。
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