歎異抄に聞く

第16回

いわき市社会福祉センターで行われた歎異抄に聞く会の講義録を掲載いたします
        
       第6章について(その2)



 専修念仏のともがらの、わが弟子ひとの弟子、という相論のそうろうらんこと、もってのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずそうろう。そのゆえは、わがはからいにて、ひとに念仏をもうさせそうらわばこそ、弟子にてもそうらわめ。ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろうひとを、わが弟子ともうすこと、きわめたる荒涼のことなり。つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどということ、不可説なり。如来よりたまわりたる信心を、わがものがおに、とりかえさんともうすにや。かえすがえすもあるべからざることなり。自然のことわりにあいかなわば、佛恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々

    
  《 ご 信 心 》

 前回は歎異抄を一回休憩しましたが、6章の続きをたずねてみましょう。前々回、仏道には、私たちが佛果に向かって歩みを進めるものと、佛果が私たちの所にまで振り向けられる事によって成り立つものがあるということを述べました。そして、念仏は後者の仏道であることを、如来を根拠とする仏道であると申しました。
 そのことは、信心という極めて一人ひとりの主体的信念の内容をも、「如来よりたまわりたる信心」であるとして、私たちが自分の主観で間違いないと信念を固めることではないのだと、歎異抄では言い当てています。つまり、如来のお心が、煩悩しかないこの私の上に信心として振り向けられることを、「如来よりたまわりたる信心」というわけです。
 私たちの先輩は、自分自身の信心に「ご」の字を付けて「ご信心」といってきました。自分自身の信心に「ご」を付けるのは、おかしな感じがしますが、そこには、自分自身の信心ではあるが、その内容は如来に由来する如来のお心なのだという了解があったから、そのように言い習わして来たのでしょう。
 

 《 信 心 同 一 》

 さて、歎異抄後序に、次のようなエピソードが取り上げられています。それは、親鸞聖人が吉水の法然上人のもとにおられた時、親鸞聖人が、ご自分の信心と法然さまの信心とは同じであるとおっしゃいました。すると、その発言に勢観房、念仏房という高弟が、なにを不遜な事を言うのかとたしなめます。当時、親鸞聖人は、法然門下では若輩者と見られていたのでしょう。高弟たちにすれば、師匠の法然さまは、智慧第一と評判も高く、人格も高潔であられる。したがってその信心も他とは比べものにならない深く拡がりのあるものであると。その師匠の信心と若輩者の親鸞の信心が同じであるはずがないということでしょう。しかし、親鸞聖人は臆することなく、法然さまの智慧才覚と同じだと言ったのなら、お叱りももっともです。しかし、私の言っているのは、信心が同じだと言うことを申しているのですと、重ねておっしゃいます。ラチがあかないので、法然上人に判断を仰ぐこととなります。その時、法然上人は、「私の信心も、善信房(親鸞聖人)の信心も、ただひとつなり」と言われ、その理由として挙げられるのが、ともに如来よりたまわりたる信心であるからと。
 ところが、私たちが信心というと、先程も触れましたが、普通、見識や経験によって形成された確信ということになるでしょう。そして、その見識に深浅があり、経験に多寡があるのですから、当然、その信心はそれぞれ異なったものとなるということになります。信心はどこまでも、それぞれの見識や経験による心理作用であるのだから、一人ひとり違うのが当たり前ということでしょう。
 一方、親鸞聖人がおっしゃる信心とは、我々の主観に基づくものではなく、如来にその根拠があるのだとおっしゃる。如来のお心が私たちのうえに至り届いたことを信心というのだと。器となる私たちの心は、バラバラではあるが、そこに入るものが如来のお心であるとすれば同一だというわけです。


 《 聴 と 聞 》

 では問題は、どうすれば如来のお心が私たちのうえに振り向けられるということが成り立つのかということです。
 ある日突然、如来のお心が私の心と一つになるという棚ぼた式では決してないでしょう。私たちの先輩は、ご信心をいただくのに近道はない、ただ聴聞(ちょうもん)あるのみと教えてきました。とにかく、念仏の教えを聴聞しなさいと。
 そして、この聴聞の「聴」と「聞」という、共にキクという意味の言葉に違いを見てきたということがあります。それは、聴を、「おみのり」を「キク」と読み、聞は、「おみのり」が「キコエル」と読んできたといえます。
 「キク」というのは、「おみのり」を聴きわけて、それを理解して自らの知見としようとするもので、聴き取られたものは、その人その人の理解の深浅、関心のあり方によって違った内容となるでしょう。「キク」は自ら聴き取ろうとする行為です。
 一方、「キコエル」というのは、こちらの思惑を越えて、向こうからやってきて、私たちのうえに振り向けられ、「おみのり」が至り届くことを言い当てようとする表現といえます。
 ここでいう「おみのり」というのは、仏法のことであることはすでにご承知していただいていることと思いますが、仏法は、ある意味では、私たちの常識や経験を超えています。ひらたくいえば、人間を超えています。人間を超えているからこそ、人間を超えさせることが出来るのです。
 人間を超えた教えを、人間である私たちが理解しようとする時、理解し得たものは、当然人間の了解ということです。人間を超えた教えを私たちが自らの了解で受け取る、つまり聴き取ろうとする時、了解されたものは、人間の理解できる範囲内のことであり、もはや人間を超える内容は抜け落ちているということにならざるをえません。
 では、人間を超えた仏法を私たちが受け取ることは不可能なのでしょうか。たしかに、私たちがつかみ取ろうとする限り、それは無理な相談だということになるでしょう。


 《 キ コ エ ル 》

 しかし、ここに、「キコエル」という関わり方があるというのです。つまり、私たちが仏法を理解をして自らの認識とするのではなくて、与えられるというかたちで、仏法そのものが私たちの認識となることが可能であるということです。
 贈与される、振り向けられるというかたちで仏法が私たちのうえに至り届けられ、私たち自身の認識にまでなることを、ここではキコエルといい、私たちに与え、振り向けて下さる主体を如来というのです。
 私たちのうえに、仏法に頷くということが起こりえたとすれば、それは如来が振り向けて下さったことで、私たちの努力によって手に入れるものではないというのです。ここでは、「弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろうひと」と、念仏申すのは、如来のはたらきによるものであるといいます。
 もちろん、どこかに、そういう如来がおられて、念仏申させたり、振り向けるお仕事をしておられるということではありません。
 如来によって念仏申すものとなった、あるいは、振り向けて下さったという表現を取るのは、私たちと仏法の分限を明確に分けて、どれだけこの私たちの世界を拡大し、深く掘り下げても仏法の世界には至り届かないということ。つまり、私たちの努力や修行では、仏法は手に入れられないということを示し(もし、努力や修行で手に入れることができるなら、仏法は、私たちの延長上にある世界ということになります)、そのうえで、私たちが、私たちを超えた仏法と関わりを持つあり方があるとすれば、それは、仏法のほうから、もしくは如来のほうから、振り向けられ(回向)、贈与されるかたちでしか成り立たないことを明らかにしようとするためです。


《 聞 法 と い う こ と 》

 先程は、如来のお心をいただくには、どうすればいいのか。それは、聴聞することしかないと申しました。仏法に親しみ、聴き続けることによって、如来のお心が聞こえる私に改変されていくのです。聴聞することで、いつの間にか、気付いてみれば、改変させられているのです。
 聴聞と同じ意味で、聞法という言い方があります。いまでは、聞法のほうがよく使われています。そして、そのとき、わざわざ、「法を聞く」とは読まず、「法に聞く」と読むことをすすめられます。
 ベストセラーとは言えませんが、静かに読み続けられている仏教書に、教育新潮社の「何々に聞く」シリーズがあります。たとえば、「歎異抄に聞く」「阿弥陀経に聞く」等々。
 ここにも、やはり同じ指摘をみて取れます。しかし、「法に聞く」「何々に聞く」では、直接目的語にあたる何を聞くのかということが抜けています。
 しかし、それは、抜けているというより、自明のことだから省略したとみるのがいいのでしょう。では、そこには何が省かれているのでしょうか。それは、一つには、私自身といえるでしょう。つまり、聞法とは、法に私自身を聞き開くことです。道元禅師の言葉にも「仏道をならふといふは、自己をならふなり」という言葉がありますが、聞法がすすめられ、聴聞の大切さがいわれるのは、決して仏教に対する知見を深めるためではなく、私自身の真のすがたを教え知らされるためであります。
 真のすがたを知らされることで、何故、私たちは、恐れや不安を抱えているのか、何故、悩み苦しまなければならないのか、その原因が明らかになれば、そこを離れることができます。聞法する眼目は、一つには、私自身のことを教えられるということです。
 そして、いまひとつ、大事な眼目があると思います。それは、如来のお心を聞き開くことです。
 如来のお心については、次回、尋ねたいと思います。  

                                            (つづく)