早過ぎた「安全宣言」の謎−その5−

早過ぎた「安全宣言」の危険性




たとえばこんな例を考えてみる。

災害で橋が壊れていないかどうか心配している人に、まだ災害が起り始めたばかりの段階で、それ以前の情報をもとに大丈夫だ安全だと言えば、そのあとそれを信じて橋を渡った人の生命は危険にされされることになる。
安全であるかどうかを確実に確認できない状況があるのに、一部の限られた情報をもとに安全であるかのような情報を流すことがどれほど危険であるのか、今さら言うまでもないことだろう。

問題は非常に単純なことなのだ。

事故がまだ起ったばかりで進行中であり、何が起っているのか、何が起ろうとしているのかよくわかっていない段階で、被害の実態もつかめていない時点で採取されたサンプルについての検査結果を、安全宣言をするための根拠にしていいのかということ。
そして、検査結果が公表される場合には、いつどこでどのように採取されたものかという情報がいっしょに公表されなければ意味がないということである。

いくら生産者の利益を守るといっても、生産者は同時に消費者でもある。
少なくとも県民の安全に配慮するならば、その時点での安全という判断が、その後採取される野菜についての安全性を認めるものではないということを正確に伝えることが、公共機関に与えられた役割であるといえる。

しかし、茨城県はそうはしなかった。
結局のところ、茨城県自体が、全体として一部の生産者側の利益代表のように動いてしまったことになる。その時点で、日本中の消費者の安全を守るという視点もかき消されてしまったようだ。

それはやむをえないことだったのだろうか。


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